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を搭載して8月1日に光基地を出撃。沖縄・ウルシー間へ向かう。8月11日、パラオ北方500浬で、発見した敵艦に対して回天3基(2基は不具合発生のため発進断念)を発進させ、爆発音3つを確認したが、アメリカ側に該当する記録はない。終戦により、8月18日に呉に帰投。 11月30日、除籍。 1946年4月1日、五島沖で海没処分。
筵に到着。15日1000、運貨筒を曳航して出港するも、その後時化により運貨筒は流失してしまう。17日、北東へ向け浮上航走中、バルディア島のミドルリーフ南方で座礁しかけた。21日、伊36は作戦中止の命を受けて反転。25日に幌筵に到着した。27日、特設運送船(給油船)帝洋丸(日東汽船、9
助かったが、先任将校中島信義大尉以下81名が殉職した。伊60も艦首を損傷した。衝突の原因は伊63が配備点を誤っていたこと、伊60が伊63の右舷燈と艦尾燈を小型船舶二隻の燈火と思い込み、両燈の間を通過しようとしたことにあった。 ※『艦長たちの軍艦史』429-430頁による。 八代祐吉 少佐:1928年5月16日
が頭部弁に挟まって全閉できず、内部弁も閉めてなかったため、給気筒から機械室に浸水したものと推定された。16日、浮揚のために呉から起重機船が到着するも、同日夕方、台風による悪天候により、浮揚・救助活動が打ち切られた。事故の詳細な調査は、調査に関与する将校がサイパンの戦いに参加していたため行われず、その後の戦いでそのほとんどが戦死した。
663トンを揚陸し、第二次丹作戦に参加しメレヨンに不時着していた二式飛行艇の搭乗員など51名を収容した(または60名収容)。メレヨンからの帰路では低圧排水ポンプ用電動機起動管制器の焼損や潜舵出入用電動機の故障に見舞われ、また便乗者2名が死亡した。5月24日、横須賀に帰投。 5月25日、横須賀工廠で航空揮発油搭載工事開始
潜」等と略記する。 1942年の改⑤計画第5461号艦。1943年2月16日、呉海軍工廠にて起工。同年10月30日に進水。1944年5月25日、竣工。横須賀鎮守府籍。同日第十一潜水戦隊に編入。 6月13日に「伊33潜」が訓練中の事故で沈没し、「伊361潜
伊号第三百六十四潜水艦(いごうだいさんびゃくろくじゅうよんせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦。伊三百六十一型潜水艦の4番艦。ウェーキ島への輸送任務中に戦没。以下、艦名は「伊364潜」と略記する。 1942年の改⑤計画第5464号艦。1943年7月26日、三菱重工業神戸造船所にて起工。1944
アメリカ軍の硫黄島侵攻に対し、「伊368潜」と「伊44潜」、「伊370潜」で回天特別攻撃隊千早隊を編成。「伊368潜」は回天5基を搭載して1945年2月20日に大津島基地を出撃し、未帰還となった。2月27日、「伊368潜」は硫黄島西方、北緯24度7分、東経140度19分においてア