语言
没有数据
通知
无通知
淡海国造(おうみのくにのみやつこ・おうみこくぞう)は淡海国を支配した国造。 『先代旧事本紀』「国造本紀」に近江国造とある他、近淡海国造とも。 『古事記』によると、祖は天押帯日子命で、和邇氏、春日氏、小野氏、額田国造、武社国造と同系。 同書孝元天皇段では、波多八代宿禰の後裔として淡海臣が記されている。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」では物部印岐美連公は十市根大連の子で、駿河国造の祖・片堅石命の弟とされている。 「天孫本紀」には印岐美連公は「志紀県主、遠江国造、久努直、佐夜直等の祖」とある。 本姓は物部氏(もののべうじ)。氏姓は不明である。 国造の本拠は遠江国磐田郡で、現在の磐田市にあたる。磐田市には遠江国府や国分寺が設置されていた。
寛永12年(1635年)、徳島藩2代藩主蜂須賀忠英の時代に由良が狭いため、城下町ごと由良城から洲本城に移転する(「由良引け」) 洲本城(下の城) - 由良引けの後に作られた平城の洲本城。江戸時代・蜂須賀家家老稲田氏が治めた城下町。跡地には淡路文化史料館。 南あわじ市 栗原城 志知城 - 別銘:志智城。淡路国三原郡志知村
うすくほのかなさま。
(1)ものの味わい・感じなどがあっさりと好ましいさま。 また, 人柄がさっぱりしているさま。
明治天皇巡幸に際し、堤橋からまっすぐ東に向かう新道が建設される。これにより、浪打新町が街道沿いとなり、後に新茶屋町とも呼ばれる。北側に位置する古くからの茶屋町は古茶屋町と呼ばれる。 1876年(明治11年) - 郡区町村編制法により、東津軽郡造道村となる。 1883年(明治16年) - 字浪打の一部の浪打新町が分離して栄町となる。
⇒ くにのみやつこ(国造)
古代, 大和の王権に服属した地方首長の身分の称。 地方統治にあたらせ, 大和政権は国造制のもとに地方支配体制をかためた。 大化の改新による国郡制の施行によりその多くは郡司に優先的に登用されたが, 一部は律令制下の国造として祭祀(サイシ)をつかさどり, 世襲の職とされた。 くにつこ。 こくぞう。