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力士名 備考 新大関(第41代) 不動堂岡右エ門 大関 恵蘇嶽峰右エ門 石見潟丈右エ門 関脇 釈迦嶽雲右エ門 出水川貞右エ門 小結 関ノ戸億右エ門 雪見山堅太夫 前頭筆頭 達ヶ関森右エ門 二十山彌太夫 前頭2枚目 友綱良助 三國山宗右エ門 前頭3枚目 越ノ海勇藏 唐糸織右エ門 前頭4枚目 稲川政右エ門
東 番付 西 備考 成績 力士名 力士名 成績 備考 新大関(第23代) 全休 三國川瀬左エ門 大関 洞ヶ嶽浜右エ門 全休 全休 鱛ヶ洞岩右エ門 関脇 磯碇平左エ門 2勝2敗1分1預1無勝負1休 3勝2分1預1無勝負1休 出水川貞右エ門 小結 艫綱良助 4勝2敗1分1休 6勝2敗 鰭ヶ嶽岸右エ門 前頭筆頭
この時代の江戸相撲においては優勝力士という概念は存在していないが、後に定められた優勝制度を遡って準用することができる。本場所においては、艫綱が優勝に相当する力士であるとみなすことができる(優勝制度は、制定当初は番付上位者優勝制度を採用していた)。 酒井忠正『日本相撲史 上巻』ベースボール・マガジン社、1956年6月1日。
は筆頭と筆脇が掌握し、かつそのふたつの役職はほぼ歴代の雷や錣山はじめ一部の年寄たちによって独占的に襲われた。本場所の勧進元(興行主)は彼らによって回り持ちとされ、収益は勧進元がほぼ独占できた。後援の商家らの協力で興行の失敗を回避する仕組みも整えられ、これがのちの相撲茶屋の前身となった。
幕内 優勝争いは、休場明けの横綱常ノ花と、初優勝を目指す大関能代潟の間で争われた。8日目、常ノ花は全勝、能代潟は1分(6日目、小結玉錦戦)で結びに直接対決が行われ、能代潟が勝利、逆転して半星リードとなる。このまま両者勝ち進み、最終的に能代潟が1分(勝ち越し10)、常ノ花が1敗(勝
大関陣は、朝乃山、貴景勝は10勝5敗となるものの、正代は一時期平幕相手に3連敗したことも響き、千秋楽に負け越し、7勝8敗となり、5月場所をカド番でむかえることとなる。 三賞は殊勲賞に3大関を破り、優勝した照ノ富士。 技能賞におっつけを武器に、二大関を倒し、上位で10勝5敗の好成績をあげた若隆景が自身初の三賞受賞。
看板大関の大嶋・大童子は、ともに今場所からの起用。この内、大嶋は現役は本場所のみである。 この場所の番付から、「勧進相撲」の表記が「勧進大相撲」に改まる。 [脚注の使い方] ^ 酒井 (1956), p. 106. 古今大相撲力士事典 酒井, 忠正『日本相撲史』 上巻、ベースボール・マガジン社、1956年6月1日。
終わった白鵬の両横綱がこの場所も勢いを保ち、9日目の時点で全勝の両横綱に迫っていたのは2敗の大関魁皇のみだった。魁皇は7日目まで1敗で踏ん張るも、絶不調の千代大海を除く上位陣に全敗してしまい、優勝争いから脱落した。 この場所も両横綱の一騎討ちになるかと思われたが、朝青龍は10日目からの上位戦、まず