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後光厳天皇の生母。父は内大臣正親町三条公秀。准三宮。院号は陽禄門院。 延元2年(1337年)3月に従三位に叙任。光厳上皇に最も長く仕え、崇光・後光厳両天皇を産む。観応3年(1352年)6月頃より病み、10月に院号宣下と同時に准三宮となり、同年出家して、11月28日に42歳で薨去した。大梅山長福寺に埋葬された。
に叙任。延文6年/正平16年(1361年)権中納言に任じられる。康安2年/正平17年(1362年)正三位、貞治3年/正平19年(1364年)従二位に陞叙。2年後には権大納言になり、応安3年/正平25年(1370年)正二位。その後はしばらく出仕を止めていたが、南北朝統一後の応永2年(1395年)9月に
正親町三条 公則(おおぎまちさんじょう きんのり)は、江戸時代中期の公卿。参議・正親町三条実同の子。官位は正三位・権中納言。大正天皇の高祖父にあたる。 安永5年(1776年)に叙爵。以降累進して侍従・左近衛権少将・美作権守・左近衛権中将を経て、寛政8年(1796年)に参議となり公卿に列する。
弘安10年(1287年)正月13日:権中納言を辞す。 正応元年12月20日(1289年1月13日):正二位に叙す。 正応5年(1292年)4月16日:民部卿に任ず。 永仁3年(1295年)8月11日:民部卿を辞退す。 正安元年12月27日(1300年1月19日):権大納言に任ず。 正安2年(1301年)3月6日:権大納言を辞す。
積を側近として重用していたが、この事件後、幕府の圧力で官職を止めざるを得なくなった。さらに宝暦10年(1760年)には出家させられており、薨去まで完全に朝廷から切り離された。 しかし徳川幕府崩壊後、他の同事件連座者たちと同様公積も晴れて名誉回復。明治天皇からも勤王の功績を認められ、従一位が追贈された。
正親町三条家(おおぎまちさんじょう け、旧字体:–三條–)、のちの嵯峨家(さが け)は、藤原北家閑院流三条家庶流である公家・華族の家。公家としての家格は大臣家、華族として家格ははじめ伯爵家、後に侯爵家。 左大臣三条実房の三男の権大納言公氏を家祖とする。当初の家号は三条であったが、屋敷が正親町東洞院
正親町三条 実義(おおぎまちさんじょう さねよし)は、江戸時代後期の公卿。権中納言・正親町三条公則の子。官位は従三位・権中納言。正親町三条家26代。 寛政11年(1799年)叙爵され、以降累進して侍従・右近衛少将・左近衛権中将・参議を経て、文政元年(1818年)には従三位となり公卿に列する。同年に踏
正親町三条 実有(おおぎまちさんじょう さねよし)は、安土桃山時代後期から江戸時代前期の公卿。官位は正二位・権大納言。初名は実助(さねすけ)。 文禄3年(1594年)叙爵。その後、侍従・右近衛少将・阿波権介・右近衛中将・蔵人頭をへて、慶長17年(1612年)に参議となり、公卿に列する。その後、権中