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正親町三条 実有(おおぎまちさんじょう さねよし)は、安土桃山時代後期から江戸時代前期の公卿。官位は正二位・権大納言。初名は実助(さねすけ)。 文禄3年(1594年)叙爵。その後、侍従・右近衛少将・阿波権介・右近衛中将・蔵人頭をへて、慶長17年(1612年)に参議となり、公卿に列する。その後、権中
同年の八月十八日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督、教部卿等などを歴任した。明治3年(1871年)12月、家名を嵯峨に改姓。明治13年(1880年)、勲一等旭日大綬章。明治16年(1883年
1287年(弘安10年)、幕府が後宇多天皇から熈仁親王への皇位交代を申し入れて来た際、その横暴を「末代作法口惜事也」(末代の作法、口惜しき事なり)と歎じたことがよく知られている。 父:正親町三条公貫 母:藤原為経の娘 妻:聖海の娘 男子:正親町三条公秀(1285-1364) 女子:光明天皇後宮 養子:正親町三条公躬(正応3(1290)年
さねあき)は、江戸時代前期の公卿。官位は従三位・参議。初名は季成(すえなり)。 寛永8年(1631年)叙爵。刑部大輔をつとめていたが、慶安2年(1649年)、前年に薨去した兄公高の養子として正親町三条家を継ぐこととなった。右近衛少将・右近衛中将を経て、明暦元年(1655年)従三位参議となり
文和4年(1355年)12月8日、正二位に昇叙。 延文5年(1360年)12月28日、母の喪に服す。 康安元年(1361年)5月14日、復任する。 貞治2年(1363年)8月2日、父の喪に服す。同年11月18日には復任した。 貞治4年(1365年)12月30日、権大納言を辞した。
実躬は文永元年(1264年)の生まれであるから、実仲を公貫の長男とするのが正しいであろう。生母の出自の差により庶嫡が決められたと考えられる。 実仲が生を受けた家系は公氏以来閑院流三条家の庶流として続いてきたが、「正親町三条」の家名を厳密に適応させるとすれば光厳院の外戚となった公秀以降の三条家である
妻:今川義忠の娘 男子:正親町三条公兄(1494年 - 1578年) 生母不詳 女子:西園寺実宣室 ^ 山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館、2000年、102-106頁。ISBN 978-4-642-02797-7。 黒田基樹・編著『今川氏親 シリーズ・中世関東武士の研究』(戎光祥出版、2019年)
正親町三条 実興(おおぎまちさんじょう さねおき)は、室町時代後期の公卿。権大納言・正親町三条公治の子。官位は正四位上・参議。後花園天皇(102代)・後土御門天皇(103代)の二帝に亘り仕えた。 長禄2年(1458年)叙爵し、以降累進して侍従・右近衛権少将・下野権介・右近衛中将・蔵人頭を経て、文明