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いる。しかしいずれの説も定説とはなっていない。 また、序文がないことや詞書が物語的であること、部立てと配列の乱れ、歌の重出などから、後撰和歌集が「未定稿」であったとする説が古来からあり、藤原清輔や北村季吟、中山美石などが主張している。村瀬敏夫は、天徳4年(960年)9月23日に内裏の火災があり、そ
『続後撰和歌集』(しょくごせんわかしゅう)は、「二十一代集」第10番の勅撰和歌集。20巻。撰者は藤原為家。収録歌集は1368首 後嵯峨上皇の命により、宝治2年(1248年)7月25日、奉勅。建長3年(1251年)10月27日、奏覧された。部立は、春(上中下)・夏・秋(上中下)・冬・神祇・釈教・恋(1
北条泰時ら幕府関係者の歌を入集させている。この点は『越部禅尼消息』で批判されている。 伝本によって歌数が違うが、1370首強ある。部立は春(上下)・夏・秋(上下)・冬・賀・羇旅・神祇・釈教・恋(1-5)・雑(1-5)から成り、従来の勅撰集の部立よりも単純化されている。最多入集歌人は藤原家隆(43首
(『古今集』から『新古今集』)と「十三代集」(『新勅撰集』から『新続古今集』)に大別され、八代集のうち最初の三集は特に「三代集」(『古今集』・『後撰集』・『拾遺集』)と呼ばれる。また、このほかに南朝で編纂された『新葉和歌集』があるが、これは準勅撰集に位置づけられる。
『新後拾遺和歌集』(しんごしゅういわかしゅう)は、勅撰和歌集。20巻。二十一代集の20番目。二条家 (御子左流)撰の最後の集である。 室町幕府第3代将軍足利義満の執奏により、後円融院の永和元年(1375年)6月29日、二条為遠が下命を受けた。永徳元年(1381年)5月に為遠が死ぬと、二条為重が後
「『准勅撰』概念の定立をめぐって」 『和歌文学研究』第57号 和歌文学会、1988年12月)。 ^ 仮名序には、「そもそもかくてえらびあつむる事も、ただこころのうちのわづかなることわざなれば、あめのしたひろきもてあそびものとならむ事は、 おもひもよるべきにもあらぬを、はからざるに、いま勅
日本最古の歌集として『万葉集』があり、勅撰和歌集(帝王の命で国が編纂したもの)として『古今和歌集』や『新古今和歌集』などがある。また、『古今和歌六帖』、『夫木和歌抄』など、勅命によらないで編纂された和歌集(私撰集)もある。また、1人の歌人の和歌を編集したもの(私家集)もある。 二十一代集(勅撰和歌集) 家集 和歌 表示 編集
的な旧守派の和歌から新奇的な和歌まで幅広い。和泉式部の激情がほとばしる恋歌から、赤染衛門の細やかな思い遣りの贈答歌、能因・良暹ら僧侶歌人の旅情豊かな歌、曾禰好忠の大胆で型破りの歌まで、その作者・作風ともに多種多様である。また詠歌背景を詳しく説明する長文の詞書が多く、散文的特色が指摘されている[要出典]。