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連緊して準板下部に装備する。槓桿で誘導螺を半回転させると歯弧との噛合いが外されて砲の方向移動が自由になる。照準具は単眼鏡式であり距離2,000mまで200mごとに距離目盛を有する。 本砲の砲弾のうち、榴弾及び代用弾は九二式歩兵砲と同一の砲弾を使用する。1934年(昭和9年)3月に伊良湖試験場で榴弾
架は架体及び砲架中匡(ほうかちゅうきょう)からなる。砲架中匡は特殊鋳鋼製の箱型体で、左右両室に分かれ、右側は準梁を成形して揺架を嵌め込む形で装着し、砲身と揺架の装着部となり、左側は照準眼鏡用の孔を持ち、ここに眼鏡孔蓋を装着する。中匡の上下面には砲身の軸線上に垂直樞軸孔を穿ち、この樞軸によって揺架
大架と接続し、俯仰運動を可能にする。大架は火砲を砲塔に固定し、小架以上の俯仰運動のため砲耳室を形成する。照準具は上部に望遠鏡式の照準眼鏡を有する鼓胴表尺式で揺架左側に装着する。重量は砲身及び砲尾66kg・装着品を含めた揺架47kg・小架10kg・大架11kgの合計135kgであった。
とは可能と判断してこの砲を再設計し、分解して10頭に駄載可能な99式10センチ山砲として制式化された。 砲身はオートフレッタージュ(自己緊縮)方式の単肉砲身で、油圧式駐退機を装備し、分解可能な折りたたみ式脚架を持っていた。分解搬送が可能とは言っても、常時駄載するには重すぎたため、原則として組み立てた
五式七糎半戦車砲とは、大日本帝国陸軍が第二次世界大戦時に開発をしていた戦車砲である。 当初は七糎半戦車砲(長)と呼ばれ、新中戦車(乙)用として半自動装填装置が装備された物を開発していたが、後に新中戦車(乙)と同時に開発が進められていた新中戦車(甲)(のちの四式中戦車)にも搭載されることとなり、半
九糎臼砲(きゅうさんちきゅうほう)、とは日本軍が日清戦争から太平洋戦争まで使用した臼砲である。 1891年(明治24年)に制定された物は青銅製であったが1903年(明治36年)から砲身が鋼製になり大阪砲兵工廠で生産された。 左右旋回角は固定で駐退機を持たない簡単な構造をしている。 日露戦争では十五糎臼砲や二十八糎砲と共に活躍している。
国産化に向けての改良としては、原型や試作時はいわゆる二重構造の焼嵌式砲身を使用していたが、量産化に当たり当時国内でもほぼ定着していた自己緊縮式の単肉砲身に変更された(このため本砲は一貫して焼嵌式であったと誤解される場合もある)。照準具は運用上の利便性から国産の旧来のものに変更され、また原型砲や初
九七式中戦車 チハ(きゅうななしきちゅうせんしゃ チハ)は、1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の主力中戦車である。 1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次世界大戦における日本軍の主力戦車として使用された。