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八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)は、1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。日本初の国産制式戦車として開発・量産された。秘匿名称「イ号」(「ロ号」は九五式重戦車、「ハ号」は九五式軽戦車)。 先の試製一号戦車の成功を受け、戦車の国産化に
架は架体及び砲架中匡(ほうかちゅうきょう)からなる。砲架中匡は特殊鋳鋼製の箱型体で、左右両室に分かれ、右側は準梁を成形して揺架を嵌め込む形で装着し、砲身と揺架の装着部となり、左側は照準眼鏡用の孔を持ち、ここに眼鏡孔蓋を装着する。中匡の上下面には砲身の軸線上に垂直樞軸孔を穿ち、この樞軸によって揺架
持たせたものを搭載することが計画された。これを九九式七糎半戦車砲II型と称し、1943年(昭和18年)8月研究開始、同年10月大阪陸軍造兵廠に試作発注、翌1944年(昭和19年)3月完成、同月大津川射場で竣工試験を実施、機能抗堪
連緊して準板下部に装備する。槓桿で誘導螺を半回転させると歯弧との噛合いが外されて砲の方向移動が自由になる。照準具は単眼鏡式であり距離2,000mまで200mごとに距離目盛を有する。 本砲の砲弾のうち、榴弾及び代用弾は九二式歩兵砲と同一の砲弾を使用する。1934年(昭和9年)3月に伊良湖試験場で榴弾
桁は軽い前進角を持つ。本形式はその後一式戦「隼」(キ43)・二式戦「鍾馗」(キ44)・四式戦「疾風」(キ84)の、設計主務者小山悌による一連の中島製単座戦闘機に採用され続けた。プロペラも糸川と同じく新任技師の佐貫亦男(日本楽器製造)が担当した。剛性向上と軽量化を図るため、通し桁
大架と接続し、俯仰運動を可能にする。大架は火砲を砲塔に固定し、小架以上の俯仰運動のため砲耳室を形成する。照準具は上部に望遠鏡式の照準眼鏡を有する鼓胴表尺式で揺架左側に装着する。重量は砲身及び砲尾66kg・装着品を含めた揺架47kg・小架10kg・大架11kgの合計135kgであった。
は途中に箱根峠が存在し、相応の負荷のかかる走行内容であったが、結果はさしたる故障なく終了した。変速機は前進4段、後進1段で、初のシンクロメッシュ方式を採用した。操向装置は国産戦車に従来から使用された遊星歯車式のクラッチ・ブレーキ方式であったが、大重量となったことから油圧サーボを導入し、機動性は良好だ
戦車砲)の威力不足から連合国軍のM3軽戦車に対し苦戦を強いられた。そこで陸軍では、新鋭対戦車砲である一式機動四十七粍砲をベースとする、一式四十七粍戦車砲に換装した九七式中戦車 チハ新砲塔型(新砲塔チハ)と一式中戦車 チヘを実用化し、M3軽戦車に対抗可能となった。