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モンケ時期における漢地統治の大きな変化は、従来の統治機関(=燕京等処行尚書省)に加えて、モンケの弟のクビライが「漠南漢地軍国庶事」を任せられたことにあった。クビライは雲南・大理遠征を成功させた後、肝心の南宋遠征を進めず漢地経営に専念したため、外征の継続を望む皇帝モンケと対立す
尚書省(しょうしょしょう)は、中国で後漢から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を果たした。 前漢には尚書は少府(皇帝の私的財産を扱う部署)に属し、上奏を取り扱う役職であった。皇帝に対し何らかの上奏を行いたいと思う者は正副二つの上表書を尚書
— 『集史』「オゴデイ・カアン紀」 上記のように、オゴデイ時期のモンゴル帝国では「ウイグリスタンからジャイフーン河(=アム川)に至る」地域がひとまとまりの地域として認識され、マスウード・ベクに監督が委ねられていた。マスウード・ベクを長とする中央アジア統治機関は諸王が
河南江北等処行中書省(かなんこうほくとうしょ-こうちゅうしょしょう、以下河南行省と略称する)は元が設置した行中書省。 現在の河南省全域、江蘇省及び安徽省、湖北省北部、山東省南西部を管轄していた。 河南行省は1268年(至元5年)、元軍による襄陽が行われた際の軍事的要請により初めて設置された
乗隙叛去。二十七年、立和林等処都元帥府。大徳十一年、立和林等処行中書省、以淇陽王月赤察児為右丞相、太傅答剌罕為左丞相、罷和林宣慰司都元帥府、置和林総管府。至大二年、改行中書省為行尚書省。四年、罷尚書省、復為行中書省。皇慶元年、改嶺北等処行中書省、改和林路総管府為和寧路総管府。至元二十年、令西京宣慰司
元朝の行政区分 行中書省 湖広省 『元史』(中華書局) 『中国歴史地図集』(中国地図出版社 1997年) 周振鶴『中国行政区画通史 元代巻』(復旦大学出版社 2009年) ^ 『元史』巻65「平章政事廉文正王神道碑」 ^ 『元史』巻6 世祖紀6 三年辛卯、湖広行書省言、広西四十二郡並已内附、議復行中書省於潭州
翌年には福建行省に一旦編入された。1280年(至元17年)には福建行省が分割され、江西行省・福建行省・泉州行省とされたが、1282年(至元19年)に冗官整理のために江西・福建の両行省の統合が行われた。1285年(至元22年)から1291年(至元28年)まで福建行省は江西行省に移管されるなどの改編が行われている。
甘粛等処行中書省(かんしゅくとうしょ-こうちゅうしょしょう、以下甘粛行省と略称する)は元が設置した行中書省。 現在の甘粛省及び寧夏回族自治区の大部分、青海省北東部、陝西省及び内モンゴル自治区北西部の一部を管轄していた。 甘粛行省の前身は1261年(中統2年)に設置された中興行省である。1273年(