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〔「み」は接頭語。 「やけ」は「やか(宅・家)」の転。 稲穀を納める官の倉の意〕
⇒ みやけ(屯倉)
倉と横渟屯倉、橘花屯倉、多氷屯倉を献上したという(詳細は武蔵国造の乱を参照)。 ^ 『日本書紀』卷第十八 安閑天皇元年(534年)閏12月の条 小島憲之 他 著 『日本書紀 2(新編日本古典文学全集 3)』 小学館 1996年 ISBN 4-09-658003-1 武蔵国造の乱 糟屋屯倉 伊甚屯倉
(1)辺境に兵士を土着させ, 平時には農業を行わせ, 有事の際には軍隊に動員する制度。
(1)神領の田。 神田。
伊甚屯倉(いじみのみやけ)は、後の上総国夷灊郡(現在の千葉県夷隅郡・いすみ市・勝浦市)を中心とする地域にあった屯倉。 『日本書紀』安閑天皇元年(534年)4月1日条によれば、内膳卿の膳臣大麻呂は勅命を受けて使者を遣し伊甚に珠を求めた。伊甚国造らは京に着くのが遅れ期限を過ぎても珠を納めなかった。怒っ
と言われてきている。 このうち、1.について述べると、古くから岡山県真庭市(旧真庭郡(まにわぐん)久世町(くせちょう))の五反廃寺跡の地だとされてきた。『続日本紀』巻第二十七、巻第二十九に美作国「大庭郡」の人である「白猪臣大足」(しらい の おみ おおたり)、「白猪臣証人」(しらい の おみ
多氷屯倉(おおいのみやけ、歴史的仮名遣:おほひのみやけ・たひのみやけ)は、古墳時代の无邪志国(无邪志国造が支配した国)にあった屯倉。位置は「多氷」を「多末」(たま)の誤記として、のちの律令制における武蔵国の多磨郡(たまぐん:のちの武蔵国多摩郡)と推測される。「氷」は「ひ」であって、大「井」(ゐ)の地名にはつながらない。