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本因坊(ほんいんぼう) 江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ(→後述の「本因坊家」を参照)。 昭和になって創設された、囲碁の棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→後述の「本因坊戦」を参照)。 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた(とされる)日海
女流本因坊戦(じょりゅうほんいんぼうせん)は、共同通信社及び日本棋院主催の囲碁の女流棋戦。1981年創設。女流棋戦では最も格が高い。挑戦手合の勝者は女流本因坊のタイトル称号を得る。また5連覇により名誉女流本因坊の資格を得る。前身は1952年創設の女流選手権戦。毎日新聞社主催の本因坊戦とは無関係。 掲載新聞
先4目半コミもらい ○ 石田芳夫 1974年 三浦浩 × 先4目半コミもらい ○ 石田芳夫 1975年 田口哲郎 × 先4目半コミもらい ○ 石田芳夫 1976年 村上文祥 × 先4目コミもらい ○ 武宮正樹 1977年 菊池康郎 × 先5目半コミもらい ○ 加藤正夫 1978年 村上文祥 × 先4目半コミもらい
51が隅の攻め合いの手数を伸ばす意表をついた手で、これへの応手を白が誤り、もともと白のシマリだったところが黒有利な1手ヨセコウとなって、黒が大優勢になった。黒は白に損コウを打たせたことで、コウは白に譲り、右下、左上、中央の大どころを打って、その後も手堅い着手に終始し、差は縮まったが、237手まで黒中
上辺の模様が大きくなった。続いて黒21の切りがきびしく、黒25が「さすが秀行」と言われた好手で、黒37まで優位に立った。第2図、白△(108手目)が非勢を打開するための勝負手で、黒1から5とコウになり、白14がコウ立てになっていない手で、黒は2に継ぐことができたが、15と受けてしまった。この後黒はコ
まで細碁の局面で進むが、図の白1(128手目)から白3が好手で、先手で白Aと打つ大きなヨセを残し、これに対する黒4が形勢不利を承知で覚悟を決めた「隠忍自重」の手と観戦記に書かれた。しかしこの後の折衝で黒はAの右に守る手順を得て、優勢となる。262手完、黒3目半勝。
日本棋院・関西棋院の棋士の初段以上。 予選は、初段から四段までの低段者による第一次予選、及びその勝抜き者と五段から七段までの高段者による二次予選を行う。二次予選の勝抜き者5名と、八、九段棋士と本因坊経験者を加えた計12名で3回戦を行い、この2勝者6名と前期挑戦者を加えた7名で挑戦者決定リーグを行う。 コミは4目半。 持時間は、リーグ戦、挑戦手合は各10時間。
瀬越憲作 0-4 1945年4月、3名によるリーグ戦を実施。岩本薫が2-0で挑戦者となった。 1945年には世情は悪化し、主催の毎日新聞の囲碁欄も覚束ない状態となっており、さらに5月25、26の空襲で当時溜池にあった日本棋院は全焼したため、対局場が無くなり、長老の瀬越憲作が疎開先の郷里広島で対局場