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南川端町(みなみかわばたちょう)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8195。2017年6月1日現在の人口は151人、世帯数は103世帯。 土淵川沿い西側に位置する町。町域の北部は北川端町、川をはさんで東部から南部にかけて吉野町、西部は銅屋町に接する。 寛文13年 - 弘前中惣屋敷絵図によれば新派町として屋敷割が若干見られる。
町屋が96軒(弘前絵図)。 幕末 - 町屋と武家屋敷の入り交じった町となる。 1897年(明治30年) - 陸軍第8師団の設置に伴い、北川端町にあった遊廓が当地に移転。当時当地の西南(現:和徳町)に和徳小学校があり、学区民の反対運動があったが、和徳小学校が現在の代官町に移転したことにより、遊廓は当
(前橋市) 川端町(かわばたまち)は、群馬県前橋市の地名。郵便番号は371-0041。面積は0.24km2(2013年現在)。 西側を桃ノ木川が流れ、北部には赤城山から流下する細ヶ沢川が南流し、桃ノ木川に当町で合流している。 桃ノ木川 細ヶ沢川 江戸時代頃からある地名であり、前橋藩領だった。戦国時代の永禄年間に日輪寺村を分村した。
定府の藩士の帰国に際し、裏通りに長屋を建てる(津軽歴代記類) 明治初年 - 「国誌」によれば、町の状況は「上は町頭田畑の界より下は山道町に至る長七丁三十間一尺四寸、幅五間、貫属半数雑居す、家数凡て二百八軒」のほかに、当地の胸肩神社の末社に春日神社・稲荷神社も記されている。 1870年(明治3年) -
新町川 元は前川町・下助任町の一部で、昭和17年に現在の町名となる。助任小学校から旧紡績工場正門まで、東西に走る一筋の町が江戸期の本丁である。この本丁の西は梢丁に続いている。旧前川町一帯は、第二次世界大戦後に実施された都市計画が適用されなかったので、古い町筋のまま家屋が再建され、戦前の姿を保っている所が多い。
日本 > 青森県 > 弘前市 > 駅前町 (弘前市) 駅前町(えきまえちょう)は、青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8003。 弘前駅前に展開する町の一つ。北部から西部にかけて駅前、西南部から南部にかけて大町、南東部は表町に接する。 1966年(昭和41年) - 和徳の一部から分離、駅前町になる。
は元大工町・元長町・親方町、東部は鍛冶町、南部は相良町、南西部は在府町、西部は覚仙町・森町に接する。 正保3年(1646年) - すでに町屋として町割りがされている(津軽弘前城之絵図)。 慶安2年(1649年) - 鍛冶町とあり、70軒あまりの屋敷があり、そのうち53軒は鍛冶とあり、5丁目の南部(現
子を伝える復原が行われている。玄関に式台、ほぼ正方形の広間、座敷、板の間、次の間、常居があり、広間と常居の上に中二階がある。座敷は、簡素ながらも剛質な造りの床と違棚があり、藩政時代の落ち着いた住宅空間となっている。常居、座敷、次の間、台所が田の字型に並ぶ間取り、広い続き間、各部屋に長押、床の間に天袋