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8mから、第二青函丸では船首楼と船橋楼間では3.3mに、船橋楼と船尾楼間では2.1mに嵩上げした。 しかし、車両甲板を覆っているのは、この船首楼以外では、第一青函丸同様、船体中央部の船橋楼と後部操舵室のある船尾楼だけで、依然、車両甲板の大部分に天井はなかった。このため、
舷側の遊歩廊屋根(遊歩甲板)から立ちあがった。ちょうどこの頃、浦賀船渠でも自社開発の蒸気タービン製造を開始し、その初号機が第三青函丸に搭載された。定格出力2,000馬力の高低圧タービンの2筒式、2段減速歯車付衝動タービンで、これを2台搭載して、4時間30分運航可能な航海速力15.5ノットを確保した。
隔壁から普通船員居住区(第1船艙)の船体中心線上に鉄橋のようなトラスを1列設置し、その後ろに続く第2船艙、ボイラー室、機械室、車軸室の各水密区画ではトラスを2列に、その後ろ、倉庫区画、船尾深水タンク区画では再び1列設置し、船尾タンク前側隔壁
第二大函丸(だい2たいかんまる)は、東日本フェリーが運航していたフェリー。 1965年7月23日、大函丸 (初代)に続いて大間~函館航路に就航した。 1968年、戦車搭載性能調査を実施、陸上自衛隊のM4中戦車を搭載した。 1971年に売船され、東日本海フェリーが購入、船首ランプを閉鎖して船首を取り付
函容丸(かんようまる)は、日本海軍の運送船。 竣工後に開拓使へ譲渡され函館丸と改称した。 木造気船で、 帆装は2檣ブリッグ型。 主機は直立双置気筒機械でシリンダーの直径は660mm、行程は540mmだった。 ボイラーは方形缶1基で蒸気圧力は2kg/cm2。 計画出力は250実馬力(60名馬力)だった。
斜坑・作業坑・先進導坑 作業坑・先進導坑には、連絡誘導路が約600 mおきに設置されている。陸底部には算用師(さんようし)、袰内(ほろない)、白符(しらふ)、三岳(みたけ)の4つの斜坑があり、階段の他、自動車の通行が可能な斜路が設置されている。 青函トンネル
第五福竜丸(第五福龍丸、だいごふくりゅうまる)は、米国・ソ連の核兵器開発が急進展した冷戦時代に、アメリカ合衆国がビキニ環礁で行ったテラー・ウラム型水素爆弾実験により、多量の放射性降下物(死の灰)を浴びた、乗組員23名の遠洋マグロ漁船。無線長久保山愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日生)が、被爆した1954年3月1
航式の貨車航送船。第三関門丸、第四関門丸に準じた性能であるが、改良が加えられている。 船首、船尾どちらからも貨車を搭載できるように、外輪船であった。 函館船渠が建造し、1926年(大正15年)7月29日就航する。これにより、第一関門丸、第二関門丸が予備船となる。