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稲舟村(いなふねむら)は、かつて山形県最上郡にあった村。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い最上郡松本村、鳥越村、仁間村、福田村、角沢村が合併し、稲舟村が発足。 1948年(昭和23年)12月1日 - 最上郡新庄町に編入され消滅。 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 山形県の廃止市町村一覧
田澤 稲舟(たざわ いなぶね、1874年(明治7年)12月28日 - 1896年(明治29年)9月10日)は、日本の小説家。山形県出身。本名は田澤錦(たざわ きん) 、夫は小説家の山田美妙。第二の樋口一葉と期待されたが、23歳で夭折した。 1874年(明治7年)山形県鶴岡市鶴岡五日町川端の、外科医の
稲葉 弘通(いなば ひろみち)は、豊後国臼杵藩の第10代藩主。 弘通は長男であったが、母が側室であったため、父・泰通は正室の清操院との間にもうけた次男の副通を嫡子とした。明和5年(1768年)7月2日に泰通が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったが、副通は将軍・徳川家治に御目見することも、若年ゆ
の武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称された。 号は一鉄(いってつ)。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。 一鉄の祖父・稲葉通貞(塩塵)は伊予国の名族・河野氏の
寛永18年(1641年)、父の死去により跡を継ぐ。民政に尽力し、文武を奨励し、土木事業や社寺の再建を行なうなどして藩政の基礎を固めた。江戸府内の火消し役、公家の接待役、女院御所の造営、日根野吉明改易後の府内藩在番、高力高長改易後の唐津藩在番を務めた。寛文13年(1673年)6月24日、66歳で死去
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に与したが、当時の美濃は信長の三男・織田信孝の支配下にあったため、旧主の息子に刃向かう迷いがあった。そこで貞通は長男・典通に家督を譲っている。 同年、秀吉に従い伊勢国峯城を攻撃したが、この帰路に土民の一揆に襲われて、壊滅の危機に瀕し
あきみち)は、豊後国臼杵藩14代藩主。 稲葉通孚(第11代藩主稲葉雍通の四男、第12代尊通・第13代幾通の弟)の長男として生まれたが、先代藩主・幾通が天保14年(1843年)12月に若死にした後、祖父の雍通によって幾通の養嗣子として擁立され、天保15年(1844年)7月24日に家督を継ぐ。しかし、幼年のため
清操院の子の副通が継いだが、1年足らずで夭逝したため、副通でなく庶長子の弘通が継いだことにして将軍に御目見をした。 父母 稲葉董通(父) 河合氏 ー 側室(母) 正室 清操院 ー 牧野貞通の娘 側室 あり 子女 稲葉弘通(長男)生母は側室 稲葉副通(次男)生母は清操院(正室) ^