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稲葉 弘通(いなば ひろみち)は、豊後国臼杵藩の第10代藩主。 弘通は長男であったが、母が側室であったため、父・泰通は正室の清操院との間にもうけた次男の副通を嫡子とした。明和5年(1768年)7月2日に泰通が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったが、副通は将軍・徳川家治に御目見することも、若年ゆ
の武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称された。 号は一鉄(いってつ)。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。 一鉄の祖父・稲葉通貞(塩塵)は伊予国の名族・河野氏の
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に与したが、当時の美濃は信長の三男・織田信孝の支配下にあったため、旧主の息子に刃向かう迷いがあった。そこで貞通は長男・典通に家督を譲っている。 同年、秀吉に従い伊勢国峯城を攻撃したが、この帰路に土民の一揆に襲われて、壊滅の危機に瀕し
あきみち)は、豊後国臼杵藩14代藩主。 稲葉通孚(第11代藩主稲葉雍通の四男、第12代尊通・第13代幾通の弟)の長男として生まれたが、先代藩主・幾通が天保14年(1843年)12月に若死にした後、祖父の雍通によって幾通の養嗣子として擁立され、天保15年(1844年)7月24日に家督を継ぐ。しかし、幼年のため
清操院の子の副通が継いだが、1年足らずで夭逝したため、副通でなく庶長子の弘通が継いだことにして将軍に御目見をした。 父母 稲葉董通(父) 河合氏 ー 側室(母) 正室 清操院 ー 牧野貞通の娘 側室 あり 子女 稲葉弘通(長男)生母は側室 稲葉副通(次男)生母は清操院(正室) ^
れる。寛永元年(1624年)には丹波福知山へ移封された。 福知山では、狩りの獲物が得られなかったとして近隣の村民60人を殺害するなど、幕閣にも紀通の狂行が知られるようになった。さらに福知山城の空堀に水を満たすなど、様々な不調法があったとして、慶安元年(1648年)8月18日には江戸に参府して弁明を行
稲葉 幾通(いなば ちかみち)は、豊後国臼杵藩13代藩主。 文政4年(1821年)、兄で先代藩主の尊通の死去により、父によって(死後であるが)尊通との養子縁組が行なわれ、新たな藩主として擁立された。擁立時、7歳という若年だったため、藩政は隠居した父によって全て成されていた。
幾通に家督を継がせて、雍通はその後見人としてなおも藩政を主導した。 天保年間に入ると、藩の借金が26万両にもふくれあがったため、天保2年(1831年)11月から村瀬通吉を登用して、倹約や殖産興業政策などの藩財政改革を行なって、成功を収めた。天保14年(1843年)に幾通