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禰寝 重張(ねじめ しげひら)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。禰寝氏17代当主。 永禄9年(1566年)、禰寝重長の嫡男として誕生する。父・重長は肝付氏に与して島津氏に反抗したこともあったが、元亀4年(1573年)に和睦して以降は島津氏に忠節を尽くした。その父が天正8
重興に攻められることとなったが、これは島津軍の援軍によって撃退している。 1580年(天正8年)に死去。嫡子・重張が17代当主となり、島津氏の重臣として引き続き仕えた。重張は天正の役ののち豊臣秀吉から吉利村に移封されたが、当地に父重長の霊を祀った鬼丸神社を建立した。 重
川綱吉に拝謁する。同年、大日本史編纂事業を進める、前水戸藩主・徳川光圀の希望により、禰寝家の系図や文献を閲覧させた。元禄9年(1697年)、長年の精勤を賞され、職禄1500石を賜る。元禄10年(1698年)、上野寛永寺本堂手伝普請の総奉行を務める。 元禄12年(1699年)1月27日、江戸藩邸で死去
慶長8年(1603年)、禰寝重張の次男として吉利にて誕生。兄・菊千代が早世しており、父の嫡男となる。重張の隠居により家督と吉利領を相続する。寛永元年(1624年)9月22日、重張に先立って死去した。享年22。 寛永4年(1627年)、藩命で藩主島津忠恒の九男の福寿丸が養子となり家督を相続した。 父:禰寝重張(1566-1629)
氏とは長年縁戚関係であったが、天文12年(1543年)、種子島に鉄砲が伝わった頃(鉄砲伝来)には両氏間で合戦も行われ、種子島氏の勢力が禰寝氏の前に一頓挫を来たすこともあった(禰寝(根占)戦争)。 永禄2年(1559年)、死去。 なお、清年時代に関わることが重長(重武とも史料に出る)に帰せられていることが多く、注意が必要がある。
昔より祖禰は、躬(み)に甲冑を貫(まとい)て、山川を跋渉し、寧(やすらか)に處(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。 岡田は「祖禰」について、 「ここの「祖禰」は「祖父である禰」の意味で、「禰」は雄略天皇の祖父にあたる仁徳天皇の名前である。
〔動詞「労(ネ)ぐ」の連用形から〕
(1)律令制で, 主典(サカン)以上の官人の総称。