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大学名誉教授。2011年(平成23年)、逝去。 1983年(昭和58年)『平安・鎌倉時代散逸物語の研究』で角川源義賞受賞。1997年秋、旭日中綬章受勲。 1997年 - 旭日中綬章受章。 『平安・鎌倉時代散逸物語の研究』ひたく書房 1982 『平安・鎌倉時代秀歌撰の研究』ひたく書房 1983 『後鳥羽院
〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕
※一※ (代)
樋(トイ)の水や下水などの出口。
姓氏の一。
田口広麻呂(たぐちのひろまろ)の死ぬる時に、刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)の作る歌一首 百足(ももた)らず 八十隅坂(やそくまさか)に 手向(たむけ)せば 過ぎにし人に けだし逢はむかも ((百足らず)曲がり角の多い坂で、神にお供え物をしたら 死んでいった人に ひょっとして逢えるだろうか)
人と共に大宝律令の撰定者となり、その功績によって白猪骨・土師甥らと共に禄を与えられた。この時は位階は田辺首名と同じ進大弐(大初位下に相当)である。 大麻呂の名前が登場するのは、この箇所のみであり、その後のことも分かってはいない。 父:不詳 母:不詳 生母不明の子女 男子:山口兄人 男子:山口人麻呂
藤原 富士麻呂(ふじわら の ふじまろ)は、平安時代初期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、讃岐守・藤原村田の次男。官位は従四位下・陸奧出羽按察使。 淳和朝において、春宮・正良親王に仕えその寵遇を受ける。天長10年(833年)春宮少進に任ぜられ、やがて近衛将監に転任する。同年3月の正良親王の即位(仁明天皇