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0日、四季奏覧。10月、為明の死去により頓阿が継いで、12月に成る。部立は、春上下、夏、秋上下、冬、賀、離別、羇旅、哀傷、恋一二三四五、神祇、釈教、雑上中下。雑下に『拾遺和歌集』の組織をまねて雑体歌をのせた。恋および雑の部の歌作者に僧が多いのは頓阿の撰したためかという。歌風は平明である。 表示 編集
的な旧守派の和歌から新奇的な和歌まで幅広い。和泉式部の激情がほとばしる恋歌から、赤染衛門の細やかな思い遣りの贈答歌、能因・良暹ら僧侶歌人の旅情豊かな歌、曾禰好忠の大胆で型破りの歌まで、その作者・作風ともに多種多様である。また詠歌背景を詳しく説明する長文の詞書が多く、散文的特色が指摘されている[要出典]。
『続拾遺和歌集』(しょくしゅういわかしゅう)は、「二十一代集」中、12番目の勅撰和歌集。20巻。建治2年(1276年)亀山上皇の命によって編纂が開始され、弘安元年(1278年)に奏覧された。ただし、下命は文永11年(1274年)だった可能性もある。選者は二条為氏。和歌所は源兼氏だったが、その死に伴い、慶融が担当した。
『新後拾遺和歌集』(しんごしゅういわかしゅう)は、勅撰和歌集。20巻。二十一代集の20番目。二条家 (御子左流)撰の最後の集である。 室町幕府第3代将軍足利義満の執奏により、後円融院の永和元年(1375年)6月29日、二条為遠が下命を受けた。永徳元年(1381年)5月に為遠が死ぬと、二条為重が後
中下)・哀傷・釈教・神祇から成り、物名歌を独立した部立としており、『拾遺和歌集』に倣ったとされる。作者は560人弱。後醍醐天皇にとっては、自らの意志で最初に撰ばせた最初の勅撰和歌集である。後醍醐天皇は本歌集に非常に満足したが(『増鏡』)、京極派を奉ずる花園上皇の評は手厳しく、二条派歌人の三条実任も「偏頗」だと批判している。
(1)(歌・作品など)漏れ落ちているものを拾い補うこと。
日本最古の歌集として『万葉集』があり、勅撰和歌集(帝王の命で国が編纂したもの)として『古今和歌集』や『新古今和歌集』などがある。また、『古今和歌六帖』、『夫木和歌抄』など、勅命によらないで編纂された和歌集(私撰集)もある。また、1人の歌人の和歌を編集したもの(私家集)もある。 二十一代集(勅撰和歌集) 家集 和歌 表示 編集
大同2年(807年)2月13日に書かれたとされている。大同元年(806年)とする写本もある。だが、跋(あとがき)に「方今、聖運初めて啓け…宝暦惟新に」とある。このことから、平城天皇即位による改元の806年(延暦25年・大同元年)5月18日以降であることがわかり、「大同元年」説は誤りということが分かる。