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(1)平安時代以降, 天皇の命を伝える文書。 詔勅に比して内輪のもの。 内侍(ナイシ)が勅旨を蔵人(クロウド)に伝え, 蔵人が上卿(シヨウケイ)に伝え, 上卿が外記(ゲキ)または弁官に伝え, そこで文書にした。
官宣旨(かんせんじ)とは、弁官下文(べんかんくだしぶみ)とも呼ばれ、平安時代に太政官上卿の口宣を弁官が諸国・寺社に対して発給する下文。官符・官牒の代用として用いられた。 太政官が出す公文書は原則外記局が作成するが、官宣旨は諸国・寺社との窓口である弁官局が発給する。従って、外記局を管轄する少納言が持
年号(1069.4.13-1074.8.23)。 治暦の後, 承保の前。 後三条・白河天皇の代。
(1)液状・粉状・粒状の物の一定量をはかる方形・円筒形の器具。 一合枡・五合枡・一升枡などがある。
牛車宣旨は承平2年(932年)に健康を害した藤原忠平に出されたものが最古とされている。なお、人臣に対する牛車宣旨は、高齢もしくは病身の高官の身体を労わる意味合いを含んでおり、摂関家において若年で牛車宣旨を受けた場合においても40歳を過ぎるまでは牛車で宮門を通過することを遠慮したという。 鈴木敬三「牛車宣旨」(『国史大辞典
永承4年(1049年)の「六条斎院歌合」に出詠した「大和」と同一人とする説がある。 涙川流るゝみをとしらねばや袖ばかりをば人のとふらむ(550) はるばると野中にみゆる忘れ水たえまたえまをなげく頃かな(735) 戀しさを忍びもあへず空蝉のうつし心もなくなりにけり(809) [脚注の使い方] 大和宣旨 千人万首
陟子は、和泉式部が彰子に贈った歌に対し、彰子に代わって返歌を詠んでいる(『栄花物語』巻15)。中宮の藤原妍子に仕えた大和宣旨は、勅撰集『後拾遺和歌集』などに名を残す勅撰歌人である。二条院宣旨は、勅撰歌人である出羽弁に出仕を促す歌を、主君の威子のために代詠している。後醍醐天皇中宮の西園寺禧子に仕えた二
女御の御乳母 光源氏の頼みで明石の姫君の乳母となるために明石へ向かう。(第14帖 澪標) 明石の君や明石の姫君の一行とともに上京し光源氏と再会して語らう。(第18帖 松風) 紫の上に引き取られる明石の姫君に従って二条院にうつる。(第19帖 薄雲) 野分の翌日見舞いに来た夕霧に応対する。(第28帖 野分)