语言
没有数据
通知
无通知
、敵対する島津忠福(大田氏祖・島津延久の次男または羽州家・島津有久の子か)の拠る加世田城を攻め、忠福に加勢した伊作久逸(島津忠良の祖父)を討ち取った。 ^ 「種子島家譜」(『鹿児島県史料』「旧記雑録拾遺家分け3」所収)参照。なお、『鹿児島県史 別巻』(鹿児島県 1943年)では10月5日としている。
重要文化財)に詳しい。同文書には忠兼ら尊氏の馬廻衆と推定される53名からなる一揆契状が収録されており、特に貴重な史料とされている。 国立歴史民俗博物館編『中世の武家文書』(全国書誌番号91069347・1989年) 杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』(全国書誌番号21733580・1997年、増訂版2010年)
薩州家(さっしゅうけ)は、薩摩国の守護大名島津氏の分家。 島津宗家8代当主島津久豊の次男の島津用久(好久)よりはじまる。用久は兄の島津忠国から宗家当主・薩摩守護を継承したが、心変わりして当主の地位を取り戻そうとした兄が室町幕府の支援を受けてこれを排除したと考えられている。「薩
主、忠朝の子。天文7年(1538年)、忠朝が志布志へ移ると飫肥城を任せられる。病身のため政務は談合衆の日置美作守に一任していたといい、同9年(1540年)、日向伊東氏への抵抗勢力(長倉祐省・長倉能登守の乱)から援軍を要請されると、美作守の独断で出兵し、敗北している。
。志布志を手に入れた忠朝はここへ移り、長子の忠広に飫肥を任せた。 忠良・貴久父子が薩摩半島を掌握して対立を深めていく中で、天文9年3月3日(1540年4月9日)死去した。享年75。 父:島津忠廉 母:不詳 妻:不詳 男子:島津忠広 ^ 大山智美「戦国大名島津氏の権力形成過程―島津貴久の家督継承と官途
島津義久が日向国を掌握した前後に、守護奥州家が所持し父・勝久が豊後に落ち延びる際に持ち出していた島津宗家の文書や重物を献上している。 なお、嫡子の良久は島津義久の命により曽於郡念仏寺の住持となり、次男も僧となり「正圓」と名乗っていたが、義久の命により還俗し藤野久秀
豊州家は代々日向伊東氏の侵攻に悩まされており、忠親も度々攻勢をしのいできた。しかし次第に伊東氏の圧力は増大。永禄3年(1560年)、島津宗家15代当主・島津貴久の次男で、猛将の誉れ高い義弘を養子として飫肥城の守備を任せた。同5年(1562年)、貴久の命で義弘が飫肥城を去ると伊東義祐が飫肥城を攻撃。忠親は義祐と和解し一旦は城を明け
こうした中で文明8年(1476年)1月頃より、薩州家の島津国久をはじめ、豊州家の島津季久らが忠昌に叛旗を翻し、相良為続や伊東祐堯、菱刈氏・渋谷氏一族もこれに呼応し、「国中騒乱」といわれるほどの事態となる。3月に一旦停戦したものの、相州家の島津友久も叛旗を翻したために戦いが再開され、文明9年(1477年)に反守護方による鹿児島侵攻が