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比叡山に入り、梶井門跡尊快入道親王に師事して出家し、真仙僧正から灌頂を受けた。文永2年(1265年)天台座主に任じられ、亀山天皇(後鳥羽天皇の曾孫)の護持僧となった。その後、一旦辞退したが文永8年(1271年)再び護持僧に任じられ、元寇の危機感が高まる中で異国降伏の祈祷を行っている。文永11年(1274年)皇孫ながら親王宣下を受け、法親王となった。
性入道親王が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任した。高倉天皇の第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈祷を行っている。小野流・広沢流両流の法を受けた。建仁2年(1202年)、仁和寺喜多院で死去。 和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『
守覚法親王 覚行法親王 尊覚法親王 覚恵法親王 公弁法親王 真寂法親王 性円法親王 尊円法親王 覚雲法親王 慈道法親王 守澄法親王 澄覚法親王 尊朝法親王 覚法法親王 慈胤法親王 尭延法親王 最雲法親王 覚深法親王 覚快法親王 静恵法親王 聖雲法親王 尭恕法親王 尊性法親王 円恵法親王 道法法親王 尊純法親王
太上法皇。 高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上
24年9か月と在職期間が最長であった。また、親王の身位を持ちながら、生涯京都の地に足を踏み入れることがなかったと考えられている。8代将軍久明親王の子。 8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。 延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。同年9月
覚法法親王(かくほうほっしんのう、寛治5年12月29日(1092年2月9日) - 仁平3年12月6日(1153年12月22日))は、平安時代後期の皇族・僧。白河天皇の第四皇子。母は源顕房の娘師子。真言宗仁和寺第四世門跡。高野御室・勝蓮華寺獅子王宮とも称される。 異母兄である覚行法親王のもとで出家・受戒し、法名ははじめ真行と称し、のちに行真
〔「しんおう」の連声〕
(1)天皇の子供を敬っていう語。 皇子・皇女。