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中脇 2017. ^ 『お湯殿の上の日記』 ^ 『二水記』 中脇聖「土佐一条房冬と禁裏・古岳(嶽)宗亘の関係をめぐって」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第2巻、岩田書院、2017年) 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年 近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年
2年(1493年)には太政大臣に任ぜられる。同年関白を辞任したが明応6年(1497年)再度関白職に復帰した。跡継ぎが居なかったため、兄・教房の孫の房通を婿養子にして家を継がせた。永正11年(1514年)3月27日薨去。享年51。 父・兼良の影響を受け、学問に熱心で古今和歌集の講義を行ったり、新撰菟玖波集の編纂に尽力した。
かねふゆ)は、戦国時代の公卿。関白・一条房通の子。一条家12代当主。官位は従一位・関白、左大臣。 天文9年(1540年)従三位、右大臣に叙任される。 天文17年(1548年)6月中旬、若気嘲弄物語(島原図書館松平文庫の蔵書)の写本の奥書に「右一冊者故禅閤<後成恩寺>之述作云々、一笑云々」との一文を記している。
年、月日は旧暦。西暦年は、分かりやすくするため旧暦と新暦のずれを考慮せず、単純に置き換えただけである。 父:一条内経 母:西園寺公顕の娘 正室:洞院綸子 - 洞院公賢の娘。 長男:一条内嗣 (1335/1336-1352?) - 正二位・権大納言。南朝側についたため廃嫡された。正平7年/文和元年(1
元年12月(1294年1月)に薨御。享年46。 勅撰和歌集入首。建治元年(1275年)に、『摂政家月十首歌合』を開く。 左近衛中将 正嘉元年(1257年)11月10日:従三位(左中將如元) 正嘉3年(1259年)正月21日:権中納言 正嘉3年(1259年)正月22日:正三位 正元元年(1259年)閏10月15日:従二位
従一位に昇叙。12月14日 左大臣を辞す。 寛元5年(1247年)- 1月19日 摂政・内覧・藤氏長者を辞す。 弘長3年(1263年)- 8月12日 左大臣に還任。 文永2年(1265年)- 閏4月18日 再度の関白宣下。10月5日 左大臣を辞す。 文永4年(1267年)- 12月9日 関白を辞す。 弘安7年(1284年)-
一条 内経(いちじょう うちつね)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣・一条内実の子。官位は従一位・関白。一条家4代当主。号は芬陀利華院関白(ふんだりかいん かんぱく)。 正安元年(1301年)に元服して翌年に公卿に列する。嘉元2年(1304年)、父の急死によって14歳で一条家を継いだ。『玉葉和歌集
、兼熈は騙されたことを知ったという(『吉田家日次記』)。この出来事については、近衛道嗣の日記『後深心院関白記』貞治6年4月4日条において、前関白九条経教が兼熈と同様に騙されて良基に抗議したことが記されている。 かくして貞治6年に元服して正五位下に叙され、翌応安元年(1368年)従三位となる。嘉慶2年