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附弟となり、慶長17年(1612年)に聖護院に入寺。同年12月に親王宣下を蒙り斉祐(ただすけ)と命名される。次いで元服し、名を好仁と改める。同日二品に叙品、弾正尹に任じられる。 寛永2年(1625年)10月に高松宮の宮号を賜る。この宮号は好仁親王の養母勧修寺晴子(新上東門院)の御所が高松殿であったこ
に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。親王はヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範(そっせんすいはん)した。 1890年(明治23年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。
個人的な趣味は写真撮影であった。写真の趣味に関しては、11歳頃から母親の三笠宮妃百合子からコダックインスタマチックカメラを貰ったのがきっかけであった。学習院高等科時代に写真部に入部して夜間遅くまでクラブ活動をしていた。その他の趣味として根付のコレクション・社交ダンスなどがあり、多趣味な人柄だった。
この項目に含まれる文字「猷」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。 猷仁親王(みちひとしんのう、1887年〈明治20年〉8月22日 - 1888年〈明治21年〉11月12日)は、日本の皇族。明治天皇の第4皇男子。母は、園祥子。大正天皇の異母弟、昭和天皇の叔父にあたる。
薨去にあたっては内閣総理大臣謹話が発表され、一般からの弔問記帳を受け付けた(同月10日~16日までの7日間で3,268人が記帳)。同年6月17日には、父の三笠宮崇仁親王が喪主(喪主代理は姪の彬子女王)、生前親交のあった一條實昭が司祭長を務め、司祭副長にはNHK勤務時の同僚の長谷昴彦が就いた。豊島
5皇男子(第13子)として誕生する。同年12月7日、宮内大臣土方久元子爵の名前で命名の告示が出されている。 1894年〈明治27年〉8月17日、慢性脳膜炎のため、薨去。0歳没。8月21日に行われた葬儀の当日は東京府下に限り歌舞音曲の停止が発令された。 ^ 明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題
からもそのことがうかがえるが、夭折した。同年9月29日、命名の太政官布告が出されている。叙・三品。お印は不詳。1878年(明治11年)7月26日、脳水腫のため、薨去。 夭折の翌1879年(明治12年)に誕生した同母弟・明宮嘉仁親王は成人を迎え、さらに1912年(明治45年/大正元年)には父・明治天
こった。陵は京畿道驪州市にある寧陵で、夫の孝宗と共に埋葬された。 祖父:張雲翼(刑曹判書 贈 領議政 徳水府院君 貞敏公、1561年-1599年) 祖母:密陽朴氏(生年不詳-1632年) 父:張維(右議政 贈 領議政 新豊府院君 文忠公、1587年-1638年) 母:永嘉府夫人安東金氏 夫:孝宗