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中佐:1939年7月15日 - 1940年11月15日 谷口秀志 中佐:1940年11月15日 - 1942年8月1日 繼一 少佐/中佐:1942年8月1日 - 砲艦長 1944年10月1日 - 1944年10月10日 (兼)繼一 中佐:1944年10月10日 - 1944年12月23日 (本職:第一砲艦隊司令)、以後砲艦長の発令無し。
000mだった。 上記のように主機にタービンを採用し、 艦本式高圧低圧2段減速タービン2基を装備した。 揚子江急流を遡上する時に推進器が空転する恐れがあったため、タービンが逆回転しないよう主蒸気管系に調速弁装置が設けられた。 復水器は低圧胴に付属する形で2基を装備した。 機械室は1室で長さ7
第二期拡張計画の計画変更により浅喫水砲艦1隻(後の「宇治」)の建造が決定した。 しかし、この艦の吃水(計画2.1m)では揚子江下流域での運用に限られ、揚子江上流域での運用するための更に吃水の浅い砲艦が要望され、1902年 (明治35年) 9月30日に浅喫水砲艦建造が上申されたた。
海軍辞令公報 (部内限) 第405号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076900 ^ a b 「昭和15年5月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 第485号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078100 ^ a b 「昭和15年10月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第543号」 アジア歴史資料センター
1933年11月15日 大石堅志郎 中佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日 丸安金兎 少佐:1934年11月15日 - 1935年10月10日 倉永恒記 少佐:1935年10月10日 - 1936年3月11日 有田貢 中佐:1936年3月11日 - 1937年11月15日 沢勇夫 少佐:1937年11月15日
また後方にも上構を設けて兵員室とした。 煙突2本。 舵は平衡舵3枚。 ボイラーはロ号艦本式混焼缶2基を装備した。 圧力15.5kg/cm2の飽和蒸気。 揚子江方面では石炭より重油の方が入手が容易であったため、後に重油専焼に改められたという。 また同方面の夏場には缶室の気温・湿度が著しく上昇するため、この時に通風機械を増設した。 主機は直立3気筒3段レシプロ
英国式の勢多型と比較して、低い煙突や大型の操舵室など日本海軍独特なスタイルとなった。 艦の大きさは極力小さくするように努められた。 船体は短い船首楼甲板を持ち、操艦を考慮して艦の長さは45.3 mに抑えられた (勢多型は54.8 m) 。 揚子江の急流域を溯行するために速力は勢多型と同じ16ノ
機銃弾防御として、艦橋に7mmDS鋼、方位盤側壁に6mmDS鋼の防御板を装備した。 この防御板は外洋航行の時は取り外して艦内下部に格納することにした(復原性能対策)。 機銃弾防御としてその他に舷側外板を10mm厚とした。 2隻(「橋立」「宇治」)が大阪鉄工所桜島工場で建造された。 橋立(はしだて)