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工藤氏(くどうし)は、藤原南家の流れをくむ日本の氏族のひとつ。 仁寿8年(852年)、藤原為憲の官職が「木工助」であったため「工藤大夫」と称したのが源流(『尊卑分脈』)。為憲の孫は駿河守維景(これかげ)。 為憲の子孫は駿河国以外にも伊豆国(狩野郷)、甲斐国などへ移り住んだ。為憲の子維職(これもと)
「諸家ニ於テ神社執奏ヲ止メ自今神祇事務局ニ於テ管轄処理ス但神宮及加茂伝奏ハ旧ニ仍ラシム」 アジア歴史資料センター Ref.A15070139100 ^ 芻を量る秤は殿下渡領である楠葉牧の象徴であるとともに、摂関家の軍事力の象徴であり、交通手段や天皇や他の公卿・貴族への贈答品としても重要視された(中込律子「摂関家と馬」(初出:服藤早苗
は長野方業を指すとし、『前橋市史』は天文10年(1541年)にみえる賢忠が該当するといい、『群馬県史』は宮内大夫を方業(方斎)の子かとした上で厩橋2代の道安のこととする。『箕輪城と長野氏』は道賢かと指摘する。黒田論文は、宮内大夫は賢忠で箕輪長野氏を継いだ方業の実兄でもあるとする。
〔「とうじ」とも〕
長氏(ちょうし)は、武家・士族・華族だった日本の氏族のひとつ。能登の国人領主。畠山七人衆であるとともに加賀八家の一つ。維新後士族を経て華族の男爵家に列する。 氏は「長谷部」。鎌倉時代、鎌倉幕府の御家人となった長谷部信連より始まる。信連は幕府から能登国大屋荘を与えられて領主化した。その子孫が「長」姓に
長野 具藤(ながの ともふじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名、武将。長野氏の第16代当主。長野御所(ながのごしょ)と称された。 天文21年(1552年)、伊勢北畠氏の当主である北畠具教の次男として生まれる。 永禄元年(1558年)、父・具教が長野氏と和睦したとき、父の命によって第15代当
長野 藤定(ながの ふじさだ)は、戦国時代の武将。伊勢国の戦国大名。長野工藤氏15代当主。 大永6年(1526年)、14代当主・長野稙藤の子として誕生。父より早くから家督を譲られて15代当主となり、父と共同統治を行なっていたようである。 天文12年(1543年)、細野氏・分部氏を主力に北畠家の支配
出典]。永禄元年(1558年)に北畠具教の次男・具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した。実質的に長野氏は北畠家に臣従したのである。 永禄5年(1562年)5月5日、死去。享年58。永禄5年説をとるのであれば、同日に嫡男の藤定も死去しているため、北畠氏に暗殺された可能性が高い。