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は応仁の乱によって焼失したことが現存部分の冒頭に記されている。終盤は明応6年9月16日(1497年10月11日)条に「これ以後は書き記さず、たびたび勅問の事などこれあらば、少々注す」と書かれており、同年および翌年の記事は簡潔に散発的に書かれているのみである。数種の別記も現存する。
為房卿記(ためふさきょうき)は、後三条・白河・堀河・鳥羽天皇に蔵人・蔵人頭として仕え、大蔵卿・参議として活躍した藤原為房の日記で、「大記」「大御記」「大府記」とも呼ばれる。 延久2年(1070年)から永久2年(1114年)までの記録があるが、治暦年間(1065年-1068年)頃から記
山科 言継(やましな ときつぐ)は、戦国時代の公卿。山科言綱の子。官位は正二位・権大納言、贈従一位。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。 山科家は藤原北家四条家の分家であり、羽林家の家格であったが戦国期には他の公家と同様不振の時代を迎えていた。天文17年(15
〔「まうちぎみ」の転〕
※一※ (名)
書記言語(しょきげんご)とは、文字を媒介とすることを典型とする言語変種の一つ。 一方書き言葉(かきことば)とは、日常会話ではあまり使われず、主として文章を書くときに使われる語句や語法のことである。 一般に口頭言語から派生するとされるが、書記言語は発明されるものであり、子供が自然に習得する口頭言語や
江戸時代, 徳川家の親族である田安・一橋・清水の三家の称。 尾張・紀伊・水戸の御三家に次ぐ家格で, 宗家に嗣子(シシ)のないとき, 養嗣子となる資格を有する。 八代将軍吉宗のときに始まる。