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藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の嫡男。官位は従一位、関白、内大臣。 承保3年(1076年)、権大納言藤原俊家一女の全子を正室に迎える。承暦2年(1078年)に長男忠実が生まれるが、その後全子とは疎遠となり、藤原教通
他人への対応について親疎や好悪により非常に区別を付け、いかにも癖のある取り扱いをした。また「極メテ腹悪キ人」との記述が今昔物語集に見られる。 故実に反する事があった際には天皇に対してでも反論をし退出も厭わない等強硬な態度をとり、また業務を怠った国司への加階を定める際に一人「科のある者に処罰もせず
寛治5年(1091年):藤原清衡より摂関家に初入貢(軍馬2蹄)。 寛治8年(1094年)3月8日:関白を辞す。後任は子の師通。 康和3年(1101年) 1月29日:出家。法名は法覚。 2月13日:薨去。享年60。 父:藤原頼通 母:藤原祇子 - 藤原頼成娘 妻:源麗子 - 藤原信家養女、実は源師房娘 男子:藤原師通(1062-1099)
また、歌学にも優れ、家集『師輔集(九条右大臣集)』を残している。天暦10年(956年)「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話等が『大鏡』に記されている。勅撰歌人として、『後撰和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に36首が採録されている。
藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男。官位は従一位・太政大臣。妙音院太相国と号す。 当時の執政である左大臣・頼長の子であり、加えて祖父・忠実の猶子となったことで、早くから伊予権守、右近衛中将などを歴任する。師長
男子:永仁 ^ 『今鏡』打聞 第10 敷島の打聞 358段 かえるの弁の事。『今昔物語集』巻31 第7 にも同様の説話があるが、女の死後師家も程なく病死したという結末となっている。 ^ a b c 『蔵人補任』 ^ 一説では家範の子とする。 ^ 『中右記』承徳元年閏正月20日条 竹鼻績『今鏡 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1984年
五位・検非違使尉から、父・西光の引き立てで安元元年(1175年)12月29日に加賀守となるが、弟・師経を目代として派遣し自身は遙任する。 安元3年(1177年)比叡山の末寺であった白山涌泉寺と紛争を起こし、比叡山大衆が神輿を担いで強訴する騒ぎとなったため、師高は尾張国井戸田に流罪、師経は禁獄となった。同時に天台座主・明雲も解任され伊豆
やすのり)は、平安時代前期の公卿。藤原南家豊成流、左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。 地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石と謳われた。 斉衡2年(855年)治部少丞に任官。その後、民部少丞・兵部少丞・兵部大丞・式部少丞を歴任。貞観2年(860年)伊勢斎内親王行禊の後次