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正月24日:兵部大輔(依夢想辞少将所任大輔)。10月10日:従四位上(東三条院御賀) 長保4年(1002年) 正月30日:右近衛中将(成房出家替)、従三位(東三条院御骨荷持賞。越階) 長保6年(1004年) 正月24日:兼近江権守 寛弘5年(1008年) 正月28日:参議、右中将如元 寛弘6年(1009年) 正月28日:備中守
武官を歴任したのち、天徳4年(960年)従四位下・中宮権大夫兼春宮亮に叙任され、同母妹の中宮・藤原安子と所生の春宮・憲平親王に仕える。同年、村上朝の有力者であった父の右大臣・藤原師輔を失うが、それでも安子が村上天皇からの寵愛を深く受け、有力な皇嗣候補である憲平親王(冷泉天皇)・為平親王・守平親王(
父・忠雅の後を継ぎ中央官界に進出、平清盛の娘を室として、平氏政権下において順調に昇進を重ねる。このため寿永2年(1183年)には源義仲によって一旦官職を追われるが、後白河法皇の信任を背景に文治3年(1187年)に元の地位である大納言に復帰、以後正治2年(1200年)に左大臣に至るまで昇進を重ねた。
白河院政期末から鳥羽院政期にかけて20年以上に亘って地方官を務め、位階は久安5年(1149年)正四位下に至った。この間、鳥羽院の八幡御幸において神楽庭火の本歌をとなえたり、保元3年(1158年)に行われた復活内宴で篳篥を演奏したほか、源資賢らとともに雅仁親王(のち後白河天皇)の今様先達を務めるなど、音楽面での活動が見られる。
戒を受けて剃髪した。ところが、道兼は「父に出家前の姿を一目見せ、出家することを告げた後に必ずこちらに戻ってきます」と言うや、寺から立ち去ってしまった。天皇は騙されたと知るが既に手遅れで、宮中では兼家と兄・道隆が東宮即位の準備を手早く済ませていた。翌朝、義懐と権左中弁・藤原惟成が元慶寺に駆けつけるが
元暦元年(1184年)11月21日条。源頼朝に呼び出された俊兼は特に華美かつ派手であり、小袖十余領を着、その袖の褄(つま、端)は重色になっていた。頼朝は俊兼の小袖の褄を切り、千葉常胤や土肥実平の質素さを引き合いに出しながら「お前は才能に富んだ者なのに倹約ということを知らない」「今後は華美
藤原 兼輔(ふじわら の かねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日(933年3月16日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、右中将・藤原利基の六男。賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言と号した。小倉百人一首では中納言兼輔。三十六歌仙の一人。
死という事態を受けて降伏、出雲国へと配流され政治生命を終えた。それから僅か2年の後、配所において21歳で病没している。 太ってはいたが容貌美しく、心ばえも穏やかであったという。狛光近の指導により舞踊にも長ずるなど、上流貴族の子弟に相応しい教育を受けていた。 ^