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前秦の閻負・梁殊が前涼へ使者として赴いたとき、前涼の涼州牧張瓘は彼らへ前秦の人材について問うた。その際に「驍勇・権略に長け、攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流で、万人の敵となる者は、前将軍・新興王苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越、安遠将軍倶難、建武将軍徐成で
永興元年(357年)6月、父の苻堅が天王位に即くと、天王太子に立てられた。 建元元年(365年)7月、匈奴の右賢王曹轂・左賢王劉衛辰が前秦に反旗を翻すと、苻堅は自ら精鋭部隊を率いて討伐に赴き、苻宏は衛大将軍李威・左僕射王猛の補佐の下長安の留守を預かった。
千2百戸をその統治下に置いた。 383年12月、丁零である前秦の衛軍従事中郎翟斌が河南において反乱を起こし、苻暉の守る洛陽を攻めんとした。さらに、慕容鳳、前燕の旧臣の子である王騰、遼西段部の末裔である段延らは翟斌の挙兵を聞き
の弟の苻師奴を撫軍大将軍・并州牧に任じて朔方公に封じた。苻纂は苻懿を差し置いて苻登自ら帝位を継いだ事に不満を抱いていたが、止む無くその命を受けた。これにより貳県に割拠する盧水胡の彭沛穀、屠各(匈奴の一種族)の董成・張龍世、新平羌の
後秦の君主の姚萇に捕らえられ処刑されると、苻丕は部下の進言を受けて晋陽の南にて皇帝に即位した。苻堅の諡号を宣昭皇帝、廟号を世祖として仮の廟を立て、文武百官を任命して息子たちを諸侯王に封じた。当初は王猛の息子である王永らの目覚しい活躍もあり、孤立する前秦の残党を糾合して晋陽を中心に一大勢力を形成したが
た蒲生は刀で自らを刺して血を流すと、「これもまさか涙と言うのですかな」と言い放った。驚いた蒲洪は蒲生を鞭打ったが、蒲生は「生来、刀刺を恐れた事などありませんが、鞭打ちは我慢なりませんな」と言うと、蒲洪は「汝が行動を改めなかったならば、我は汝を奴隷に落とそう!」と脅した。だが蒲生はなおも反論した
られた。 拓跋什翼犍の諸子には拓跋窟咄という人物がおり、立派に成長していた。その為、苻洛は彼を長安に遷らせると、同時に苻堅へ書を送り、拓跋窟咄を太学に入れさせた。 苻洛はかねてより苻堅から嫌われており、また兄の北海公苻重は洛陽で謀反を起こしたことがあったので、大いに警戒され
晩年は病身で政務が執れなくなり、亡き太子の弟である三男の苻生を立太子し、朝政に当たらせた。この状況下で、甥の平昌王苻菁が自立を画策し兵を率いて東宮に侵入して、苻生を弑することを試みるが失敗し、逆に苻菁は殺害されてしまった。 355年6月、苻健が病没した。享年は39。その後、太子の苻生が即位して継承した。 ^ 『晋書』「巻一百一十二 載記第十二」。