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御厨(みくり、みくりや)とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことである。本来は神饌を用意するための屋舎を意味する。御園(みその、みそのう)ともいう。 本来は神饌を調理するための屋舎を意味するが、表現の一種として神饌を調進するための領地も意味する。そこに生産者(漁民など)が神人として属していた。
(苅部直・前田雅英・玉井克哉)『園部逸夫オーラル・ヒストリー タテ社会をヨコに生きて』(法律文化社、2013年7月) (橋本寿朗・鷲田清一)『わが記憶、わが記録 堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』(中央公論新社、2015年11月) (阿川尚之・苅部直・牧原出)『舞台をまわす、舞台がまわる 山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社、2017年3月)
在地領主丸氏は代々源氏の家人である。石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた頼朝が、治承4年(1180年)9月11日に丸五郎信俊を案内人として当御厨を巡検、平家討伐の宿望を果たしたなら、当国中に新御厨を立て重ねて伊勢神宮に寄進する由の自筆の願書をしたためたという。 ^ 『吾妻鏡』治承4年9月11日条 小笠原長和 編『千葉県の地名』
田直助の娘だったが、当主・満助の養女となった。 実名中の「満」は鎌倉公方・足利満兼の偏諱と考えられる。『簗田家譜』では「御家之鑑」、簗田氏中興の祖とされている。なお、満助は助良と同一人物である可能性が指摘されている。そもそも、満助の名前が登場するのは『簗田
川の瀬を両岸より杭・竹・石などでせき, 一か所をあけてそこに簀(ス)を張り, 流れを上り下る魚をその上で捕らえる仕掛け。 ﹝季﹞夏。
常胤子息親類を相具し、源家に參らんと欲す。爰に東六郎大夫胤頼父に談りて云く、當國目代は平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に參らば、定めて凶害を插むべし。先ずこれを誅すべきかと。」とある。 ^ 『吾妻鏡』治承4年9月14日条に「下総国千田荘領家判官代親政は、刑部卿忠盛朝臣の聟なり。平相国禪閤に
大庭御厨(おおばみくりや)は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。 大庭御厨は鎌倉景正(景政)によって開発された。伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。大庭
御厨人窟(みくろど)は、高知県室戸市室戸岬町にある弘法大師伝説の残る海蝕洞である。御蔵洞とも表記される。四国八十八箇所・最御崎寺の近くにあり、番外札所の一つ。日本の音風景100選。なお、隣接する神明窟(しんめいくつ)についても記述する。 落石からの安全確保のため入洞禁止措置が取られていたが、現在は保