语言
没有数据
通知
无通知
終戦から1年、GHQの管理下にあった後楽園球場もプロ野球再興のために1945年のうちには自由に試合が行えるようになっていた。都市対抗野球大会もその復活を待ち望む声を受け、戦前同様に予選が行われ、物資には不足していたが16チームが後楽園球場に集い、GHQ関係者も観戦する中、トーナメントが行われた。 この大会から3位決定戦が行われるようになった。
初出場は仙台市・日本たばこ、君津市・新日鐵君津、横浜市・三菱重工横浜の3チーム。このうち日本たばこ、三菱重工横浜は8強入りして台風の目となった。 天井知らずで伸び続けていたホームラン数だったが、空調のきいたドームで試合をするようになり、投手のスタミナ配分がうまくできるようになったか、あるいは「ホーム
た全鐘紡も予選から出場したが、大会出場チームは25チームで固定された。 この年の2月2日に、補強制度を考案するなど大会隆盛に寄与した小野三千麿が死去。日本社会人野球協会と毎日新聞社はこの大会から、大会を盛り上げたチーム、個人に対して贈る小野賞を創設した。 13回以上の延長戦が4試合も行われた混戦の
このトーナメントを制したのは創部11年目の東京都・プリンスホテル。金属バット使用のトーナメントながら全5試合で被本塁打0と投手陣が踏ん張り、また絶妙な継投が決まり、守りの野球を貫いて初優勝を達成した。橋戸賞は攻守ともに重要な役割を果たした瀬戸山満年捕手が受賞。最後はプリンスホテルの攻撃の前に屈し
後楽園球場など4球場で8月22日から14日間、世界アマチュア野球選手権(のちのIBAFワールドカップ)が開催されたことから、「真夏の球宴」が「晩秋の球宴」となって都市対抗が開催された。都市対抗が10月以降に開催されたのは初めてで、その代わり第7回日本選手権大会が5月に繰り上げられた。
全31試合中ホームランが出なかったのがわずか1試合と、各チームとも金属バットへの適応が進んできたことをうかがわせる。その結果、大会通算ホームランは78本と、第50回大会での記録(62本)を大幅に塗り替えた。 打撃力の勝るチームが勝ちあがる大会となり、決勝戦は川崎市・日本鋼管と横須
を採用、現在まで都市対抗野球の大きな特徴となった補強選手制度が編み出された。 上述のように前回優勝の星野組が解散したため、大会に参加したのは地区予選を勝ち上がった19チーム。優勝したのは大阪の新鋭・全鐘紡。日本生命を予選で破り、日本生命の主力選手を補強してうまくチームを編成し、初優勝を飾った。
前回大会は1964年東京オリンピック開催を記念して出場32チームとなったが、この大会から第41回大会まで、本大会出場が30ないし31チームに固定されるに至った(今大会は30チーム)。 前回大会の王者・日本通運は開幕試合に登場したが、三菱重工神戸に0-1で敗れる不吉な幕開け。 ベスト8のうち7チームが西日本勢という「