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徳島市西部に位置し、上八万地区に属する。市街地近郊の農村地域である。北部を入田方面から名東方面へ鮎喰川が流れ、南岸の平野部を中心に開けている。徳島県道207号鬼籠野国府線が南部山中の南丁から東丁を通り、鮎喰川に架かる一宮橋を渡り北部西丁へと至る。また鮎喰川南岸沿いを徳島県道21号神山鮎喰線が走る。
津田橋は大正15年起工のもので、開通当時は徳島第一の長橋であった。昭和7年に徳島市と小松島市を結ぶ産業道路が開通した。 町内出身の大和幾次郎によって創案されたバッチ綱漁法は第二次世界大戦後、全国的に広まった。繁栄した漁業も水産資源の減少により不振りとなった。昭和42年に海水浴場が閉鎖され、昭和46年に沖合1Kmが埋め立てられた。
西は籠屋町に接する。県内有数の商店街に囲まれた一帯で、料亭・喫茶店・バー・飲食店・パチンコ店などが密集する歓楽街。富街(ふがい)とも通称され、阿波の芸所という伝統が現在も脈打っている。 江戸時代から現在の町名。昭和17年からは一丁目から二丁目がある。江戸期は徳島城下の町人町のひとつで、明治22年から
張から移し、最初は寺島に集め、後に眉山山麓の当地に移転させた。その移転年代は不詳。 勝瑞から移された寺院は、徳川家の位碑を安置する浄土宗の還国寺・浄智寺、真言宗の源久寺・東宗院、日蓮宗の本行寺・寿量寺・妙永寺・善学寺・妙典寺・本覚寺・妙長寺な、真言宗の来福寺・善福寺・願成寺・般若院、浄土真宗の慈船
座があった。昭和20年6月22日米軍の500hg爆弾攻撃と、同年7月3日の徳島大空襲では、著しい戦火を受けた。戦後、一丁目・二丁目は富田町歓楽街の外延的拡大を示し、バー・キャバレー・ホテルなどが建てられ、秋田町・鷹匠町・富田町と共に市の歓楽街と化した。 同42年に西富田公園設置。同50年に南新地の一部を編入。
免れた。 当地は江戸期に谷田蒔絵で著名な蒔絵師・谷田忠兵衛が居住。彼は4代藩主・蜂須賀綱通に抱えられ、金こがしと呼ばれる手法の華麗な蒔絵を制作。この技法は古今蒔絵師中、彼唯一の技法で、日本漆芸史上高く評価されている。また幕末の三筆と称され
したので、通町と称した。南は新シ町(あたらしまち、現 中通町)、北は八百屋町の町筋。西は西横町に接した。1681年(貞享2年)の徳島市中町数並家数によれば、家数76、東西の町筋とある(民政資料)。なお紙屋町から当町と魚町角までの南北54間の片町もあった。 当町の年中行事として1月10日(かつては旧
幸町 幸町(さいわいちょう)は、徳島県徳島市の町名。内町地区に属している。幸町1丁目から幸町3丁目までがある。郵便番号は〒770-0847。 2009年12月。徳島市の調査より。 人口:460人 世帯数:232世帯 徳島市の中心駅徳島駅の南東、内町地区(ひょうたん島)の南部に位置している。 西の