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寛延2年(1749年)、初代澤村宗十郎の養子となり二代目澤村宗十郎を襲名、その後実悪に転じ宝暦13年(1763年)の評判記には実悪部で上上吉となって評価を上げる。明和のころには再び立役に転じ、明和6年(1769年)の評判記には上上吉となる。翌年には最高位惣巻軸まで昇りつめたが、京都で『双蝶々曲輪日記』の南与兵衛など演じたのが最後の舞台となった。享年58。
澤村 藤十郎(さわむら とうじゅうろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は紀伊國屋。定紋は笹竜胆(ささりんどう)。 重井筒藤十郎(初代 澤村藤十郎) 初代 澤村長十郎の長男。生没年不詳。澤村藤十郎を名乗っていないが、澤村家の藤十郎として初代に数える。 重井筒藤十郎 二代目 澤村藤十郎 八代目澤村宗十郎の次男、1943–
出て評判となった。こうして三都にわたって多彩な活躍をしたが、晩年は体調を崩し台詞を忘れるなどの障害に悩まされた。享年49。墓所は田島山十一ヶ寺の受用院、戒名は遊心院傾誉西天。辞世の句は「あぢきなや 浮世の人に 別れ霜」。 当り役は『伽羅先代萩』の足利頼兼、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助など。体格は
平成7年(1995年) 紫綬褒章 平成12年(2000年)12月 歌舞伎座『若木仇名草』(蘭蝶)の蘭蝶をつとめ、共演した七代目中村芝雀、五代目坂東八十助とともに切口上も行い、翌月の十代目坂東三津五郎の襲名を祝った。これが伝説の最後の舞台となった。 平成13年(2001年)1月12日 心不全のため、大阪赤十字病院で死去。墓所は多磨霊園(14-1-9)
澤村宗十郎(よだいめ さわむら そうじゅうろう、天明4年〈1784年〉 - 文化9年12月8日〈1813年1月10日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。俳名は遮莫・訥子、屋号紀伊国屋。紋は丸にいの字。 三代目澤村宗十郎の息子で母は四代目松本幸四郎の娘。弟に二代目澤村田之助がいる。寛政3年(1791年)正月、澤
先、姫路の巡業先で『仮名手本忠臣蔵』の勘平を演じている最中に倒れた。その最後は、揚幕の中で「財布。財布。」と六段目の勘平の使う小道具の財布のことを口走りながら逝くという壮絶なものであった。 鷹揚な性格で、被るべき鬼女の面を忘れて舞台に立ってしまい、止むなくそれらしい顔をしてごまかしたというエピソードが伝わっている。
三代目中村松江を襲名。以後江戸や上方の舞台に出る。天保4年(1833年)正月、大坂で二代目中村富十郎を襲名する。翌天保5年には役者として「惣巻頭大上上吉」の位に上る。天保14年(1843年)、贅沢禁止令に触れ大坂より追放されたが、その後も京や江戸の舞台で活躍した。享年70。時代物と世話物を兼ね、娘
澤村 宗十郎(さわむら そうじゅうろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は紀伊國屋。定紋は丸にいの字、替紋は花有り足有りの笹竜胆。 代々の墓は田島山十一ヶ寺受用院にある。 澤村宗十郎(初代澤村長十郎) 初代の師匠・初代澤村長十郎 (1675–1734) が一時期「宗十郎」を名乗ったが、その後すぐに「長十郎」に復した。代々には数えない。