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その後、安政5年(1858年)に師の国芳より破門を言い渡される。これは国芳と不和になったからといわれるが、国芳が芳虎を破門するに当たり、「乍憚以書付奉申上候」(憚り乍ら書付を以って申上げ奉り候)と行事(町役人)に宛てて出した書状の下書きが残っている。それによれば「芳虎こと辰五郎が腹を立て、俄かに絵師を
天保12年(1841年)。戯画。団扇絵。着物の柄は、師匠は鈴・小判・猫の足跡・目刺が放射線状に並び、裾から覗く裏地はスルメ。手前の弟子はふかひれ、奥は蛸の絞りと猫の好物尽くしである。 画像-19:『荷宝蔵壁のむだ書』 嘉永元年(1848年)頃 画像-20:『人かたまつて人になる』 弘化4年(1847年)頃。「人おほき人の中にも人ぞなき
歌川芳重 歌川 芳重(うたがわ よししげ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 歌川国芳の門人。歌川の画姓を称し一要斎と号す。作画期は天保から安政の頃にかけてで、美人画や合巻の挿絵などを描いている。 『褄模様比翼紫』 合巻 ※墨春亭梅麿作、天保9年(1838年)刊行 「海運蚕養草」 大判錦絵3枚続 ※刊年不明
けると、保輔は負けじと水と大鷲を繰り出す。 「破奇術頼光袴垂為搦」 安政5年(1858年)4月 これも『四天王剿盗異録』の巻之八、源頼光が足柄山で熊とウワバミの戦いを見る場面がもと。この戦いは保輔の幻術による物で、この間に保輔は頼光の荷物を奪い取る。 「大江山酒呑退治」 安政5年(1858年)10月
歌川 芳室(うたがわ よしむろ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 歌川芳勝の子、一富斎と号す。作画期は幕末の頃で有卦絵などを残している。 「金性之人有卦ニ入ル」 大判錦絵 ※有卦絵、安政元年(1854年) 「新板けだ物づくし」 大判錦絵 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年
立美術館所蔵 ※「六十四翁 一椿斎芳輝」の落款、「芳輝画印」の白文方印あり(二幅いずれも同じ)。明治4年 「衣通姫図」 絹本着色 大英博物館所蔵 「鍾馗図」 幟絵 「神宮皇后と武内宿禰」 絵馬 碓氷峠熊野神社所蔵 白石一 「一椿斎芳輝」 『浮世絵界』第4巻第2号 浮世絵同好会、1939年 ※2 - 7頁
歌川国芳の門人、歌川を称し一盛斎と号す。下谷御徒町に住む。作画期は嘉永から安政の頃にかけてで、錦絵を残している。 「船有卦七富乗合」 大判錦絵 館山市立博物館所蔵 ※有卦絵、安政元年(1854年) 「清元直伝本 其小唄夢廓」 大判錦絵揃物の内 早稲田大学図書館所蔵 ※安政4年(1857年)
絵を学んでいたが、国貞のもとを出奔し国芳の門に入る。国芳はちょうど国貞が歌川豊国を名乗った時だったので、わざと芳豊の名を与えたという。つまり「豊」の字を「芳」の字の下に置いたということである。作画期は安政から慶応にかけての頃で、幕末には武者絵のほか、はしか絵や凧絵を得意とし横浜絵