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持明院(じみょういん)は、平安時代末期から江戸時代にかけて平安京北郊に存在した邸宅およびその邸内にあった寺院。現在の京都市上京区安楽小路町の光照院の付近にあった。鎌倉時代以降には仙洞御所や里内裏となり、持明院統の由来となる。邸宅を持明院殿、また寺院を安楽光院(あんらくこういん)・安楽行院(あんらくぎょういん)とも称す。
家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。 藤原道長の次男藤原頼宗の曾孫、藤原俊家の子・基頼の流れを汲む。江戸時代の石高は200石。家学は鷹匠、書道(筆道宗家)、神楽。 明治維新後、華族に列し、華族令発布後には基哲が子爵に叙せられた。 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
鎌倉時代の禅僧・道元の言葉を弟子の懐奘が記した『正法眼蔵随聞記』に下記の記述がある。 「示して云く、伝へ聞く、実否は知らざれども、故持明院の中納言入道、あるとき秘蔵の太刀を盗まれたりけるに、士ひの中に犯人ありけるを、余の士ひ沙汰し出してまひらせたりしに、入道の云
嵯峨清凉寺の寺宝の牛皮華鬘は、陳子にまつわる伝承を持つ。陳子所生の安嘉門院が夢で、母が牛に生まれ変わったことを知る。女院はその牛を探し出し、購入して厚遇するが、「慳貪の罪で畜生に生まれ変わった者の苦役をとどめれば、贖罪がかなわない」との釈迦のお告げを得て、泣く泣く元の飼い主に引き渡した。その後まもなく死んだ牛の革で華鬘を作ったという。
母:藤原定能の娘 妻:藤原行頼の娘 男子:持明院基盛(?-1277) 生母不明の子女 男子:持明院基直 男子:最善 男子:守円 ^ 『民経記』嘉禄3年6月28日条。 ^ 『民経記』貞永2年正月25日条。 ^ a b 『持明院家譜』家定。 ^ 『尊卑分脈』頼宗公流。 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年
建仁4年(1204年)正月5日:正五位下に叙す(前皇后宮去仁安三年大嘗會御給)。 元久2年(1205年)正月29日:左近衛少将に任ず。家行に改む。 元久3年(1206年)正月17日:従四位下に叙す。少將如元。 承元5年(1211年)/建暦元年 正月5日:従四位上に叙す(七条院当年御給)。 11月3日:左近衛中将に任ず。 建保2年(1214年)正月13日:正四位下に叙す。
明統(めいとう)は、中国の大理国の段素英の時代に使用された元号。992年 - 996年 。 ^ 楊慎 s:zh:南詔野史 「素英,宋太祖乙酉雍煕二年即位。明年,改元廣明,又改元明應、明聖、明統、明治。」 ^ s:zh:雲南志略 「子(乘)〔素〕英立。改元廣明,又改(白)〔曰〕明應、明聖、〔明〕治、明統。在位二十五年。」
等持院(とうじいん)は、京都市北区等持院北町にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。本尊は釈迦牟尼仏。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。 足利尊氏は暦応4年(1341年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の康永2年(1343年)、現在の京都市北区等持