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花より実、という渋い芸風で、そこから「澁團」と呼ばれた。 小柄な体格だが抜群の演技力を誇り、時代物に適した立役や敵役、女形を兼ねた。華美な演出が主流となった歌舞伎の風潮に流されることなく堅実な芸風を保持し、後ろ向きで台詞を言っても観客を唸らせるほどの名人だった。
文化3年、66歳で死去。辞世の句は「木枯らしに 雨もつ雪の 行衛かな」。また孫でこの年15歳になったばかりの七代目團十郎の将来を祝福して、「顔見世や 三升樽の 江戸のつや」と詠んだ。墓所は青山墓地。 細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、女形など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にあ
市川 團子(いちかわ だんこ、新字体: 団子)は、歌舞伎役者の名跡。江戸時代に三河屋系が三人、明治以降に澤瀉屋系が五人いる。今日ただ「市川團子」というと、通常は澤瀉屋系の團子を指す。 三河屋初代 市川團子 四代目市川團蔵の次男、1786–1818。 三河屋初代市川團子 → 三代目市川團之助 三河屋二代目
の天王寺墓地にある。戒名は「巌生院釈玲空」。 團蔵の死について三島由紀夫は、「団蔵の死は、強烈、壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評であつた。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世間から思はれてゐるが、本当に人の心を搏つの
を受け鉄扇で打たれたとき、額から血を流しながら大きな眼で無念の形相を見せ、反逆児の内面を見事にあらわした。 明治を代表する劇評家の三木竹二は「…頬骨張りし面いかにも一癖あるべく見え、口を結びて折々じろりじろりと上眼に見廻す眼中物凄く、(中略)ねちりねちりと咳枯聲にて言伏する呼吸、また一種の妙味あり
昭和41年(1966)の祖父の引退興行では『書写山』の鬼若丸の型を伝授される。昭和62年(1987)歌舞伎座『時今也桔梗旗揚』(馬盥の光秀)の武智光秀、『源平布引瀧』(実盛物語)瀬尾、『船弁慶』の弁慶で九代目市川團蔵を襲名する。中堅俳優として活躍。
田川続俤』の法界坊、『平家女護島』の俊寛など。体格は小柄だったが、芸は器用で太刀打立回り、宙返り、早替りなどを得意とした。実子に市川團三郎、三代目市川團之助、四代目市川團之助がいる。養子の市川團次郎はのちに五代目團蔵を襲名した。 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
子供芝居に出る。上方や九州の舞台にも立ち、天保2年(1831年)、大坂で初代市川白蔵と改名。天保5年、江戸に帰って二代目市川九蔵を襲名する。その後は江戸と上方を往復しながら舞台を務める。嘉永5年8月(1852年)、五代目市川團蔵の未亡人の養子となり、同年10月大坂角の芝居『金烏玉兎倭入船』で六代目市川團蔵を襲名した。