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少弐 嘉頼(しょうに よしより)は、室町時代の武将。少弐氏13代当主。 永享5年(1433年)、父・少弐満貞と兄・資嗣が大内持世との戦いに敗れ戦死すると、嘉頼は弟・教頼と共に対馬国に落ち延びることを余儀なくされ、宗貞盛の庇護下に入る。対馬で元服し家督を継いだ嘉頼
少弐 頼尚(しょうに よりひさ/よりなお)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。少弐氏6代当主。 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こると賛同し、父・少弐貞経に従って九州における北条氏勢力であった博多の鎮西探題北条英時を滅ぼす。建武元年(1334年)、鎌倉幕府滅亡後に後醍
少弐 教頼(しょうに のりより)は、室町時代の武将。少弐氏14代当主。 永享5年(1433年)、父・少弐満貞と兄・資嗣が大内持世との戦いに敗れ戦死すると、教頼は兄・嘉頼と共に対馬国に落ち延びることを余儀なくされ、宗貞盛の庇護下に入る。対馬で元服し家督を継いだ兄・嘉頼
年/延元元年(1336年)2月、子・頼尚を援軍として派遣した際、主力軍が遠征した隙を付かれ菊池武敏や阿蘇惟直ら南朝方の勢力に攻め込まれ、2月29日、有智山城で自害した。享年65。 貞経の死後、3月2日に筑前国多々良浜の戦い後、3月6日に少弐氏の菩提寺安養院に詣で、初七日の法要を営む。その際、尊氏は追悼文を供えた。
永享5年(1433年)3月、幕府から満貞の追討令を受けて九州に下向した大内持世と戦い、有智山城で敗北。筑前秋月城で戦死した。 子・資嗣は肥前国与賀庄の戦いで戦死、嘉頼・教頼は対馬の宗氏を頼って落ち延びた。 ^ a b 『新選事績通考』 ^ 『横岳系図』 ^ 『大日本史料』第7編之6 727頁 ^ 『史料綜覧』第7編之907
姓氏の一。 武藤資頼が源頼朝に臣従, 鎮西奉行となり, 大宰少弐も兼ねて以降, 姓となる。
律令制で, 大宰府(ダザイフ)の次官(スケ)。 大弐(ダイニ)の次位。
少弐景資:長崎県松浦市鷹島に記念碑がある。 少弐盛経 少弐貞経 少弐頼尚 少弐直資 少弐冬資 少弐頼澄 少弐貞頼 少弐満貞 少弐資嗣 少弐嘉頼 少弐教頼 少弐政資 少弐資元 少弐冬尚:最後の当主 少弐資時:弘安の役で壱岐にて戦死し、壱岐神社の祭神とされた。壱岐芦辺港に銅像がある。 少弐高経 少弐政興:当主として認められてはいない。