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遺跡において、五千数百年前の砂脈に加え、弥生時代から奈良時代初期と推定される土層を引裂く最大幅20cmの砂脈の層に奈良時代後半の土層が覆われていた。また京都府綾部市の青野西遺跡では古墳時代前期頃の竪穴建物と埋土を引裂く最大幅50cmの砂脈が平安時代の建物の柱穴によって貫かれていた。これらの砂脈は何れ
御本社二階三軒社宝殿造り屋禰檜皮葺 (中略:大破の内容) 右浅間社頭目録之通今度之大地震故大破之上ニ弥破壊仕候付乍恐書付を以御注進申上候 已上 富士大宮別当 宝幢院 同案主 富士大学 同公文 富士長門 同大宮司 富士山城 富士山本宮浅間大社による文書『大地震富士山焼出之事』には、「□□
書上げ申覚』には大泊村(現熊野市)にある観音堂の千手観音像について、「是れは応永の比右観音堂炎焼仕り其以後の再像にて御座候処去る亥の大地震に御手其他揺落し損傷仕り候得共・・」という記録が応永14年地震の項目に収録されているが、同一の史料が1707年宝永地震の項目にも収録されている。同書には「・・右縁
とごとく掘れ一面の川成り。在処残らずにつき相助かる両町の者、相集い城主藤原朝臣下野守元信公同宍喰村城主藤原朝臣孫六郎殿御両殿諸寺諸社は申すに及ばず町家も残らず、それぞれ町並にして御取立下され候。 津波襲来時、城山(愛宕山)の大手門が閉じられていたため、城内へ入ることに難儀し死者が多く出たという(『震潮記』)。
『近衛家文書』には「而去嘉保年中大地震之時□□々空変海塵、経数十年、爰此七八ケ年、漸為陸地、令開作之間、件両嶋、鹿取・野代両庄住人、」とあって、本地震で木曽川下流域の鹿取・野代の地が「空変海塵」の状態となり、年月を経て陸地に戻った様子が記述される。木曾三川河口デルタの低地
年号(1704.3.13-1711.4.25)。 元禄の後, 正徳の前。 東山・中御門(ナカミカド)天皇の代。
「ない(地震)」の転。
〔「な」は土地, 「い」は居の意という〕