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明宗の太子だった康宗の長男として生まれた。1197年、祖父の明宗が権臣の崔忠献により廃位され、一族も江華島に流罪となったが、幼い頃の高宗の行跡については史料が足りない理由で明確ではない。父の康宗は1210年に開京に帰還し、熙宗から漢南公に封じられたが、翌年に崔忠献の暗殺を図った熙宗が廃位され、康宗
熙宗七年崔忠獻廢王遷于江華尋移喬桐 高宗十九年崔瑀忠獻之子後改名怡發三領軍營宮闕于江華王發開京次于昇天府入御江華客館崔瑀迎熙宗於紫燕島前自喬桐又移于此 二十一年徴諸道民丁營宮闕及百司崔瑀徴州縣軍加築縁江堤岸 三十三年幸禪源社 四十年八月習水戰于甲串江蒙兵十餘騎摽掠甲串江外
1170年、武臣の鄭仲夫が反乱を起こし(庚寅の乱)、兄の毅宗を廃したため、擁立されることとなった。しかし明宗は鄭仲夫の傀儡に過ぎず、惰弱で統治能力も無かったために、鄭仲夫の後は慶大升・崔忠献らに実権を握られた。この間、明宗は武臣の暴走を止めることもできず、政治は乱れに乱れた。明宗は1
1122年)。姓は王、諱は俁、諡号は明烈斉順文孝大王。粛宗と明懿王后柳氏の息子。 父王の粛宗の女真征伐に対する誓疏を大事に保管して即位した後軍法を整備して神騎軍を査閲するなど女真征伐に努力し、1107年に尹瓘、呉延寵などが女真族を征伐して、翌年には千里長城東北地域に9城を設置した。 敬和王后李氏(宣宗の娘) 順徳王后李氏(李資謙の次女)
淐の項参照)、モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時に100年ほど続いた高麗の武臣政権に終止符が打たれた。1270年には開京への還都を決行した。 還都に伴い反モンゴルの姿勢をとるゲリラ集団・三別抄の解散を図ったが、逆に三別抄は王の弱腰政策に怒り、高麗に対してまで反乱を起こさせることとなっ
康宗(こうそう、1152年5月10日 - 1213年8月26日)は、第22代高麗王(在位:1211年 - 1213年)。姓は王、諱は祦、初名は璹、諡号は浚哲文烈亶聡明憲貽謀穆清元孝大王。明宗と光靖太后の長男として生まれた。妃は李義方の娘思平王后李氏、元徳太后柳氏。 子は思平王后李氏が生んだ寿寧宮主と元徳太后柳氏が生んだ高宗。
順宗(じゅんそう、1047年12月28日 - 1083年12月5日)は第12代高麗王(在位:1083年)。姓は王、諱は勲、初名は烋、諡号は英明靖憲宣恵大王。 文宗の長男、母は仁睿太后李氏(李子淵の長女)、妃は 貞懿王后(平壌公王基(顕宗の四男)の娘) 宣禧王后(金良倹の娘) 長慶宮主(李顥(李子淵の息子)の娘)
- 997年)。姓は王、諱は治、諡号は康威章憲光孝献明襄定文懿大王。父は王旭(追尊して戴宗)、母は太祖の娘の柳氏(追尊して宣義王后)。従兄の景宗の後を継いで即位した。同母妹に献哀王后皇甫氏および献貞王后皇甫氏(ともに景宗の妃)がいる。 行政改革を推進し、高麗建国時から濃かった