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元亀・天正の頃(1570年~1591年)小寺の如くしつらい何宗とも定まりなく(天台宗とも伝えられる)仏事菩提をとむらうこと七十有余年と伝えられる。 寛永11年(1634年)に、当時岩村城下にあった岩村藩主丹羽氏の菩提寺妙仙寺六世の斧峯牛鈯により開山された。
何しろ雲林寺は大名寺で立派で格式がやかましかったという。 方丈は9間に10間の板葺の建物で、通り仏壇・障子・欄間などがあり、玄関は2間半の通り廊下で、庫裏(裡)は7間に13間位のものであり、座敷の中など割合に小間造りで、万一の場合家老の集会などに便利なる様であった。そして板葺の2階造りであった。この庫裏の
653人。 坂本(さかもと) 旧恵那郡坂本村。 江戸時代は中山道:中津川 - 大井宿間の間の宿として栄えた(茄子川の東町、中町地区)。市の西部、中津・恵那両市街地の中間に位置し、恵那市と接する。 国道19号やJR美乃坂本駅があり通過交通量が多い。
昭和17年(1932年)に、宗教団体法制定にあたり復興されて現在に至っている。 「巌邑府誌」には、「……古ハ、堂閣門曁属坊十二有リ 兵災二罹リテ亡フ 即チ今田間ノ地ニ 其坊ト名ツクル者有り 乃チ属坊之趾也 熟ツラ地理ヲ観ルニ 狭隘ニシテ 許多ノ堂閣有ル可ラズ 疑フラクハ 此地旧
この頃には草庵があり数人の僧侶が居住していたが、文化年間(1804年~1818年)に焼失したと伝わる。 閑寂な場所にあり、消災除厄・万病平癒の祈願所として、香烟の絶えることなく、4月12日の例大祭は盛大である。 大岩薬師は恵那中部八十八ヶ所の第八十七番と第八十八番(廃寺となった信貴山の分)の札所ともなっている。
『蛭川村の親王伝説』 金剛院 p79、奥渡普門院 p89 蛭川村村史編纂委員会 1975年 『八百津町史 史料編』第四編 民俗史料 第一章 藩文書 第七節 苗木藩の廃仏毁釈に就いて 七、蛭川宝林寺及び奥渡の観音堂 p222~p224 八百津町史編纂委員会 1972年 『福岡町史』 通史編 下巻 第九章 宗教 第四節
明治45年(1942年)に隠棲し、昭和24年(1949年)に入寂した。 大法隆道は、明治45年(1912年)名古屋市の生まれで、大機活道の第一徒弟である。 駒沢大学を卒業後、大本山永平寺で修行し前住職の隠栖により、十五世住職となった。
この薬師如来は、古くより出世薬師とも呼ばれ、祭礼は毎年4月8日に行われており、多くの参詣者が訪れる。 特に頭部の病(耳だれ・頭痛)などの平癒祈願、安産、母乳の御授けの祈願に霊験あらたかで、錐や綿で作った乳首などの奉納が多かった。