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大工島と呼ばれ、安宅御役所に出入りする船大工の居住であった。安宅物と呼ばれた日用の木工品を作り続けた伝統を受け継ぎ、福島一丁目から二丁目・新南福島一丁目から二丁目と並んで、地場産業である木工業の中心地である。 元は大工島町と安宅町の一部であり、昭和17年に現在の町名になった。昭和41年に末広町の一部を編入。
世帯数:559世帯(同上) 徳島市の中央部に位置。北は八万町、西は上八万町、南は北山町、東は三軒屋町・西須賀町と接する。米・ミカンなどを栽培する農業地域。西部は山地で、その斜面を利用して柑橘類の栽培を、東部は平地が広がり米作をしている。 東端を国鉄牟岐線・徳島県道136号宮倉徳島線がかすめる。中央を徳島県道209号八多法
張から移し、最初は寺島に集め、後に眉山山麓の当地に移転させた。その移転年代は不詳。 勝瑞から移された寺院は、徳川家の位碑を安置する浄土宗の還国寺・浄智寺、真言宗の源久寺・東宗院、日蓮宗の本行寺・寿量寺・妙永寺・善学寺・妙典寺・本覚寺・妙長寺な、真言宗の来福寺・善福寺・願成寺・般若院、浄土真宗の慈船
座があった。昭和20年6月22日米軍の500hg爆弾攻撃と、同年7月3日の徳島大空襲では、著しい戦火を受けた。戦後、一丁目・二丁目は富田町歓楽街の外延的拡大を示し、バー・キャバレー・ホテルなどが建てられ、秋田町・鷹匠町・富田町と共に市の歓楽街と化した。 同42年に西富田公園設置。同50年に南新地の一部を編入。
免れた。 当地は江戸期に谷田蒔絵で著名な蒔絵師・谷田忠兵衛が居住。彼は4代藩主・蜂須賀綱通に抱えられ、金こがしと呼ばれる手法の華麗な蒔絵を制作。この技法は古今蒔絵師中、彼唯一の技法で、日本漆芸史上高く評価されている。また幕末の三筆と称され
したので、通町と称した。南は新シ町(あたらしまち、現 中通町)、北は八百屋町の町筋。西は西横町に接した。1681年(貞享2年)の徳島市中町数並家数によれば、家数76、東西の町筋とある(民政資料)。なお紙屋町から当町と魚町角までの南北54間の片町もあった。 当町の年中行事として1月10日(かつては旧
幸町 幸町(さいわいちょう)は、徳島県徳島市の町名。内町地区に属している。幸町1丁目から幸町3丁目までがある。郵便番号は〒770-0847。 2009年12月。徳島市の調査より。 人口:460人 世帯数:232世帯 徳島市の中心駅徳島駅の南東、内町地区(ひょうたん島)の南部に位置している。 西の
つぼみや百貨店が閉店。 2006年03月18日 - 徳島名店街が新装開店。 名目上元町1丁目を所在地とするアミコビルのテナントは省略。 藍場浜公園(一部が2丁目西側) 新町川水際公園(一部が2丁目東側) アミコ専門店街(一部が1丁目西側) 元町商店街(1~2丁目東側) 徳島名店街(1丁目東側) メガネの丸善(2丁目東側)