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4両に更新されることになった。この際流用されたD-12台車は枕バネを板バネからコイルバネに換装、オイルダンパーの追加、イコライザーの強化、スポーク車輪のプレート車輪への換装などが行われ、D-13台車はさらに連接装置を撤去して、乗り心地を改善する改造が施されている。 年表 1946年(昭和21年)9月
この電動機は制御器と同様に東洋電機製造が設計製作を担当し、TDK-813-Aを呼称した。この電動機はこの時期の高性能車用電動機の通例に漏れず電機子の絶縁が完全B種、界磁絶縁がH種と耐熱性能を引き上げた上で自己通風式としてあり、また電機子巻線は整流子
京阪では初めての半鋼製車体を採用している。車体の長さがさらに1m長くなっている。 輸送量の増大に伴い、関西の私鉄の中では単行運転を続けていた京阪も遅まきながら連結運転に踏み切ることになり、1926年(大正15年)から1928年(昭和3年)に掛けて20両に連結運転対応の制御器が設置された。また、1928
カルダン継手を採用した場合、出力を維持するには容積の削減による低下分をより高回転・高発熱設計とすることで補わざるを得ず、その場合は電機子や界磁の絶縁にH種などの高価な絶縁材料を使用せざるを得なくなる。また、冷却系や整流子の設計・保守もクリティカルになり、この面でもコストが増大する。 ^ a b c d e f
ており、1両に3枚窓非貫通式と貫通式の2つの「表情」があった。 運転台のマスコン・ブレーキハンドルはダッシュボードの中に埋め込まれた形状で、床はリノタイル貼りによる市松模様となり、運転台背後に鏡が設けられた。レタリングは側面幕板部が「KYOTO-OSAKA LINE」、同腰板部が「KEIHAN ELECTRIC
5mで2扉ロングシート、片運転台の電動車であった。貨車の台枠をそのまま流用したため、車体長は当時の最新型車両だった1000型(2代)・1100型よりも4mも短く、定員も2 - 30人少ないといういかにも間に合わせの車両であった。 1941年に梅鉢鉄工所(後の帝國車輛工業→東急車輛製造大阪製作所)で4両が製造された。
[脚注の使い方] ^ したがって、京津線2両連結運転の原申請はこれらの車両とほぼ同時の1940年(昭和15年)10月22日に行なわれ、1941年(昭和16年)8月25日に認可されている。 ^ 本車両の設計をとりまとめたのは車両課長の口羽玉人で、のちに車両掛長の青木精太郎に交代した。口羽は戦後も京阪
286は1979年から1981年に500型へと改造され、両開き扉を有していた2次車・3次車についても大津線初の冷房車となった600形へ車体を供出するため廃車となった。そのため、600形の導入が完了した1988年以降残存したのは片開き扉を有していた1次車7両(261 - 267)と両開き扉の4次車1両(280)で、2両編成4本が組まれた。