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関東執事畠山国清が南征のために東国軍を率いて上洛を始めると、これを聞いて狼狽したのか、再び京都に帰参して幕府より出仕免状を取得。ただし、本領安堵は儘ならず、辛うじて後光厳天皇から加賀国額田庄などの安堵を受けるに止まっている。康安元年/正平16年(1361年)3月本座を許されたが、翌年(1362年)秋
花の上は 心おくべき 春風もなし あつからぬ ほどとぞいそぐ のる駒の あゆみの塵も 雨のしめりも 一夜あけて 四方の草木の めもはるに うるふ時しる 雨の長閑さ いろどらぬ ただ一筆の すみがきを 都のをちに かすむ峰かな たれとなく 草の枕を かりそめに 行きあふ人も 旅はしたしき 春の夜の みじかき軒端
の戦乱や半済令などによる公家領の経営の不安定は多額の費用を必要とする上級公卿には大きく堪えた。また、当時の公家社会において治天の君の勅勘や室町将軍の突鼻(譴責)を受ける事は直ちに家の取り潰しにつながる可能性もあった。こうした中で、上卿の辞退も準備もままならない状況に追い込まれた通守は後小松院の処罰に
伝送として度々江戸に下っていたが、ある時江戸に滞在していた際に仲子のことを思い「ひく人の あらでや終に あら磯の 波に朽ちなん 海女のすて舟」という歌を詠んだという。後に赦免され帰京が許されたが、伊豆から京へは侍女1人と共に徒歩で帰京することとなり、さらに侍女は道中で没したという。帰京後は寛永18
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与、林和靖間詰並御内儀口向等取締に就任。同年閏4月、桂宮祗候に転じ、その後、殿掌などを務めた。 1884年7月7日、伯爵を叙爵した。 母:醍醐信子(醍醐輝久の娘) 妻:ツグ子(養父長女)
正室:鶴 - 板倉重矩養女で、小笠原政信娘 次男:通躬 三男:野宮定基 - 野宮定縁養子 四男:久世通夏 - 久世通音養子 家女房 長男:周清 長女:山科持言室 五男:円恕 六男:尊智 ^ 久保貴子『近世の朝廷運営 ―朝幕関係の展開―』(岩田書院、1998年)
を辞したが、14日には還任し12月24日には権大納言に任ぜられる。 応永2年(1395年)7月6日、薨去。 父・通冬が一時南朝に参じたこともあり、北朝では不忠とされ通氏の時代になると中院家は不遇をかこつことになった。通氏は権中納言在任が20年に及び、その間は何の兼官もなかった。万里小路家から妻を
次男:中院通持(1300-?) 生母不明の子女 男子:成助(1297-?) 男子:道祐(?-?) 男子:寛恵(1302-1343) [脚注の使い方] ^ 『花園院御記』元亨元年9月13日条に拠る。当該記事には「明後日素懐を遂ぐべし」とある。『公卿補任』等によれば9月15日とあるが、『大日本史料』はこれは誤りとする。